南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『文学・芸術の散歩道』(源氏物語の女たち)

『文学・芸術の散歩道』内容紹介 
(「源氏物語の女たち」)
XⅥ 『 源氏物語の女たち 』
     (ブログ「越落の園」、2009年8月9日)
 源氏物語に登場する女性は数多く、個性的な女性が多い。ここでは主要な女性たちについて簡単な感想を書いてみたい。
1.光源氏をめぐる女性たち
 ① 紫の上
 紫の上は、総合的に見て登場する女性たちのうちのベスト。美貌と教養。穏やかな性格。上品さ。人望。思いやりもある。
 ② 葵の上
 つんとしてて近寄りがたい葵の上。六条の御息所のたたりで病死する。
 ③ 玉鬘
 したたかなのは、玉鬘。さんざん面倒を見てもらっても、なんだかんだ言って、身を任せない。美貌という点では、ベストか。
 ④ 花散里
 おっとりしているのは、花散里。癒し系。
 ⑤ 夕顔
 かわいそうなのは、夕顔。せっかく光と結ばれたのに、物の怪のせいか、急死する。かわいい女性といった感じ。
 ⑥ 末摘花
 不美人ながら、幸運にも光に面倒を見てもらうのは、末摘花。
 ⑦ 桐壺の更衣
 光源氏の母、桐壺の更衣は桐壺帝の寵愛を受けたが故に嫉妬にかられた他の女房たちから陰湿ないじめにあって病気になり死んでしまう。あわれなイメージ。
 ⑧ 藤壺中宮
 藤壺は、桐壺の更衣に面影が似ているいうことで、光が恋い慕い、ついに結ばれてしまうが、帝のことを考えると、罪の意識にさいなまれる。美しいかもしれないが、慎重すぎるところがいかがなものか?
 ⑨ 明石の君
 明石の君は、しっかりしてはいるが、いつも自分があまり身分の高い家の出ではないことを気にかけ続ける。控えめと言えば控えめだが、ふっきれない感じが残る。
 ⑩ 女三宮
 女三宮は、悲劇のヒロインといったイメージ。朱雀院の娘で、源氏に嫁したが若き貴公子、柏木に見初められ、ついに貞操を奪われる。びくびくしているだけの逢瀬は、ロマンティックでもエロティックでもない。しかし、薫をみごもってしまうというのも皮肉だ。
 おまけに、紫の上は、女三宮が嫁してきたことで、思い悩み体調をくずしてしまう。源氏もなさけないと思うがどうしようもない。
 ⑪ 源の典侍
 変り種は、源の典侍(げんのないしのすけ)。57、8歳の女官だが、色好みで、光を誘惑する。当時の女性は30代になると{床離れ}するのが一般的だったらしいので、顰蹙を買うことになる。
 ⑫ 六条の御息所
 六条の御息所は、積極的な女性。光の年上の愛人。賀茂祭見物の際、葵の上と車を止める場所を争ったのは有名なエピソード。位の高い葵の上が勝ったが、のちに葵の上は出産のときに御息所の生霊にとりつかれて亡くなる。
 ⑬ 朧月夜
  朧月夜は、光と恋仲になるが、あいにく政敵の右大臣の娘。それが発覚して、光は、結局は須磨流しとなる。いい女だが、親の立場が問題だった。
 ⑭ 朝顔
  朝顔は、式部卿の娘。恋に消極的で、光が何度恋文を送ってもこたえない。いたしかたなし!
 ⑮ 秋好中宮
  斎宮の女御(のち秋好中宮)は、六条の御息所の娘。光の求愛を受け入れない。御息所は、死に際して、光に「愛人ではなく娘として庇護してほしい」と要望。光は、養女とする。光源氏の口説きに落ちなかった女性の内のひとり。
 ⑯ 空蝉
 空蝉は、受領の妻。光源氏が方違えで訪れた家で、空蝉を見かけて強引に物にする。しかし、人妻であることを意識して次は許さない。内心では、光に恋しながらも。のちに、空蝉は、夫の常陸の介が任地から戻るときに、石山寺に向う光一行と逢坂山で偶然出会うという場面が出てくる(16帖「関屋」)。懐旧の情にひたるが遂に再会することはなく、泣かせる。
 ⑰ 軒端の荻 
 軒端の荻は、空蝉の継娘。空蝉のもとへ三度目に忍び込んだときに、人違いで、光は軒端の荻を抱いてしまう。期待したが、その後光からのフォローはなかった。ちょっとかわいそうな役回り。
2.夕霧をめぐる女たち
 男の登場人物としては、光源氏、頭の中将、夕霧、柏木、薫、匂宮などが主なものだが、光の息子である夕霧にもそれなりに恋する対象となる女性がいる。
 ① 雲居の雁
  頭の中将の娘、雲居の雁は、夕霧との長年の恋が実って晴れて一緒になり、子供ももうけて、良妻賢母ぶりを発揮していた。ところが、夕霧が、柏木の未亡人、落葉の宮と親密になったのを知って激怒し実家に帰ってしまう。女性の嫉妬深さは当時も相当なものだったようだ。
 ② 落葉宮
 夕霧は親友だった柏木の未亡人、落葉宮を気に入り、結ばれる。落葉宮は、自分が衰えていはしないかと気にする。女性の美へのこだわりが見て取れる。
 ③ 藤典侍
 夕霧は、光源氏の従者惟光の娘、藤典侍と仲良くなる。
3.薫をめぐる女たち
 薫は、柏木と女三宮との間の不義の子、表向きは、光源氏の子供となっている。恋愛には消極的で、仏の道に入ることばかり考えている、内省的な性格の持ち主なのだが・・・。
 ① 大君(八宮の娘)
 かたくななのは八宮の娘、大君。薫の愛を最後まで受け入れない。若いまま亡くなる。歯がゆい。
 ② 浮舟
 美貌ゆえ二人の男に愛されて苦しむのは、浮舟。薫と匂宮のはざまで失踪。あやうく一命を取り留めるが、男はこりごり。会おうともしない。
 ③ 女二宮
 今上帝の皇女、女二宮は正妻ではあるが、あまりくわしい描写はなされていない。
4.匂宮をめぐる女たち
 匂宮は、今上帝と明石中宮の間の皇子。女性に積極的なプレーボーイタイプ。
 ① 中の君(八宮の娘)
 宇治に住んでいる、大君、中の君を 薫と争う。中の君を妻に迎える。大君も中の君も美貌で上品な女性。薫も、大君の死後、中の君に未練を感じて接触を図るがうまくいかない。
 ② 六の君
 夕霧の希望で、その娘、六の君を妻に迎える。中の君は、有力者夕霧の娘には勝ち目がないと思うと気が気がじゃない。
 ③ 浮舟
 薫と、大君、中の君の異母妹、浮舟を争う。
 浮舟は、三角関係に疲れて失踪する。美貌と教養をそなえ、恋多きタイプで、源氏物語の中では、かなり魅力的なほうに数えられると思う。運命に翻弄される悲劇のヒロインの代表。 
5.その他の女性たち
 源氏物語にはきわめて多くの女性が登場するが、主役、準主役、脇役、チョイ役といった役回りの違いがあると思う。これまでは、主役級の女性を取り上げてきたが、以下は、準主役級の女性をとりあげてみたい。
 ① 髭黒の北の方
 玉鬘を強引に妻にした髭黒は、恐妻家。その北の方は、あるとき玉鬘のもとへ出かけようとする髭黒に薫物の香炉の灰を浴びせかけてしまう。思わず現れた嫉妬心は強烈だ。
 ② 大君(玉鬘の娘)
玉鬘と髭黒の娘、大君は男たちにもてもて。冷泉院の妃になり一男一女をもうけるが、正妻の弘徽殿の女御の不興を買って実家に帰ってくる。女の嫉妬心の強さを示す例のひとつ。
 ③ 明石中宮
 明石中宮は、光源氏と明石の君の間の娘で、紫の上の養女、かわいがられて育てられ、今上帝の中宮となり、匂宮の母となるといった輝かしい経歴の持ち主だが、恋物語の主人公ではないため、プレイボーイの息子匂宮のことを心配する場面以外はあまり目立たない。
 ④ その他
 このほか、そのひととなりについてあまりくわしい言及がなされない女性たちとしては、玉鬘の娘、中の君、髭黒の娘、真木柱、紅梅(柏木の弟)の娘、大君などがいる。
 以上のほか、主人公の男たちと、身分のそれほど高くない女官(小宰相、侍従など)たちとの恋愛関係もいろいろあったことがほのめかされているが、物語を進める上で重要でないとの判断からか、詳しいことは省かれている。
6.最後に
 源氏物語にはきわめて多くの女性が登場するが、それぞれについての女性像が活き活きと描き分けられているのも、源氏物語の魅力のひとつだと思う。
 たわむれに、縦軸に「愛情度」、横軸に「美貌度」をとって、女性たちをプロットしてみると、おもしろい分布図ができあがった。右上には、当然、紫の上が来る。平安時代の高貴な女性たちの群像だ。
 源氏物語はいろいろな角度から読むことができると思うが、ここでは、「源氏物語の女たち」ということで、女性の登場人物についてさらっと触れてみた次第である。

『文学・芸術の散歩道』内容紹介

『文学・芸術の散歩道』内容紹介
第二部より抜粋
XV 夏目漱石『文学論』に見る「美醜論」
       (ブログ「越落の園」、2008年5月5日)
 夏目漱石の「文学論」を見ていたら、「連想の作用にて醜を化して美となすの表出法」という項が目に付いた。
 漱石といえば、小説はあまりにも有名だが、「文学論」を読んだことがある者はすくないのではないだろうか?
 天下の漱石がどんなことを言っていたのか、ざっとながめてみるのも悪くはないだろうと思って、斜め読みをしてみた。
 おおまかな印象としては、
1.「序」がいかにも漱石らしく、ロンドン留学の経緯から、文学論を書こうとした経緯、帰国してからの諸事情、小説を書き始めたので「文学論」をまとめる暇がなくなり、弟子のひとりに原稿の整理を託したことなどが率直に述べられている。序だけ読んでもおもしろい。
2.文庫本で、500ページに及ぶ力作で、漱石がこれを自分の学術的な研究の成果として心血を注いでまとめようとした情熱と覚悟が窺われる。
3.それにもかかわらず、漱石の関心は小説に移ってしまったので、「文学論」のほうは完成度が低いままとなってしまったことに、悔いを残しつつ、内容にはそれなりの自信をもっていたらしいことが窺われる。
4.本書は、
  第一編 文学的内容の分類
  第二編 文学的内容の数量的変化
  第三編 文学的内容の特質
  第四編 文学的内容の相互関係
  第五編 集合的F
   以上の、5編から成っている。
  特に、最初に、
 (F+f)という記号的な用語がおもしろい。
   Fとは、焦点的印象又は観念
   fとは、これに付随する情緒
  を意味する。
  そして、文学的内容は、(F+f)というかたちにおいて成立と言う。
  そこからはじまって、
  ・文学的な内容がどんな構成要素をもつか、
  ・文学と科学のちがいはなにか、 
  ・文学的な内容を表現するためのさまざまな技巧の分析
  ・ある時代の集合意識の変化と暗示の役割
 といった点について、主として、英文学の代表的な詩文の引用をもとに詳述される。
 くどいと感じられるほどに、くりかえしかつ突っ込んだ分析がなされる。
 文学論とはいえ、詩論といえるような趣を呈している。シェークスピア、シェリー、キーツなどの詩文から膨大な引用がなされている。
5.こうした徹底した文学論の学術研究は、小説家としての漱石にとって大いに役立つものであったと推測される。
6.詩のレトリックを掘り下げたという点でも、特筆できる内容を持っているが、ぼくが特にこだわりをもって読んだのは、
 「第二編 第三章 fに伴う幻惑」である。関係部分を下記に引用してみよう。
 「(Ⅰ)感覚的材料 (一)連想の作用にて醜を化して美となすの表出法。
  この場合にありては物体そのものは実際経験において不愉快なるも、連想により結びつけられたる観念とともに表出する時、その観念若し美なれば、吾人がこれに対して生ずるfもまた美となるものなり。
例えば、
 ”He read ,how Arius to his friend complain'd,
A fatal Tree was growing in his land,
On which three wives successively had twin'd
A sliding noose ,and waver'd in the wind."
-Pope,The Wife of Bath,11.393-6.
のごとし。この意味はもとより三人の妻女つづきて樹上に縊死せりと云うにありて、実に不愉快極まる事件なり。然れどもこの詩につつまれたるこの事実はその不快の念を償うに足るのみならず、なんとなく美しき感じさえ生ずるを注意すべし。これ直接に縊ると云う字を点出せずして、sliding nooseをtwineするという比較的間接にして且つ滑らかな感じを連想さしむる言語を用いたると、waver'd in the wind なる藤の花、かづらなどの風裏に揺曳する様を連想せしむる字句を使いたるがため、意味は首を縊りたるなりと合点せらるるにも関せず、首縊りに関する醜悪なる光景は眼前に浮かび来たらぬなり。Popeの詩の原文たるCanterbury Tales において Chaucerは
   "Than tolde he me,how on oon Latumius
Compleyned to his felawe Arrius,
That in his gardin growed swich a tree,
On which ,he seyde ,how that his wyves three
Hanged hem-self for herte despitous."
-Chaucer,The wif of Bathe,11.757-61.
と云えり。そのいかに露骨なるかを見よ。大胆にもhanged hem-selfと云い放ちたるに過ぎず。余は決してhangなる文字を文学に容るべからずと主張するものにあらず。されどもその表出の明瞭直接なるだけfの不快を減少すること少なし。
 (二)事物そのものは醜なれども、その描き方いかにも巧妙にして思わずその躍如たる様子にうたるる場合。Spenser がその大作 Faerie Queene において Duessa(虚偽)の醜形を極力写し出せるが如し。(以下略)」
  このように、美と醜の関係について述べている。
  (なお、一部現代仮名遣いに変えてあることをおことわりしておきたい。)
  醜なるものも表現の仕方で美になると言っているのであろう。
  最近、ぼくが指摘していることとほぼ同旨のことを100年前に漱石が言っていたのかと思うとなんだかうれしくなった。
7.漱石の「文学論」は、正直、読みやすくはない。構成がすっきりしていないところとか、用語が現在とは違っているものが多くみられることなど欠点もないわけではない。しかし、そうした欠点を補って余りある深くて広くて鋭い文学的な探究がなされていると思う。さすがは漱石だと思わせる質量を持った名著だといってよいと思う。

『文学・芸術の散歩道』内容紹介

『文学・芸術の散歩道』内容紹介
第二部から抜粋
XⅣ 【 夏目漱石『文学論』の「序」に見る決断力 】
     (ブログ「越落の園」、2008年5月7日)
 夏目漱石の「文学論」の「序」は、漱石の率直な息遣いがうかがえて実におもしろい。
 いくつかのポイントを列挙してみよう。
1. 明治33年、第五高等学校の教授時代に、希望したわけではないのに、校長と教頭の文部省への推薦により、英国留学することになった。
2. 研究の題目が「英文学」じゃなく「英語」だったので、文部省の上田万年専門学務局長を訪ねて、その趣旨を尋ねたところ、「別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず」というので、ある程度弾力的にやれることを確認している。漱石の律儀さがうかがえる。
3. 英国に行ってから、ケンブリッジに行ってみたが、漱石が受け取る学費ではとてもまかなえないような裕福な学生がジェントルマンの教育を受ける場だと知って、断念し、結局ロンドンに居を定めた。
4. 大学の聴講は3、4ヶ月でやめた。予期した興味も知識も得られなかったからだという。
5. いろいろな質問をするための個人教授のほうへは約1年通った。
6. この間、英文学に関する書籍を手当たり次第に読破した。
7. しかし、書籍の数は膨大で読みつくせない。また、学力もこれ以上伸びそうもない。そこで、漱石は、「心理的に文学はいかなる必要があってこの世に生まれ、発達し、頽廃するかを極めん。社会的に文学はいかなる必要があって、存在し、隆興し、衰滅するかを究めん」と誓った。
8. ここに、漱石は、帰国後十年計画で「文学論」をまとめようと決心し、猛勉強を開始した。
9. 帰国後、漱石は東大で英文学教授の職に就いた。そこで講義した原稿もたまったが、いろいろ事情があって書き直しもできずそのままにしてあった。
10、十年計画のうちまだ二年分しかできていない未定稿だけれど、書肆の求めに応じて出版することにしたが、自分でまとめることができない事情があり、友人の中川芳太郎氏にまかせた。
11.ロンドンの二年間は不愉快だった。帰国後の三年半も不愉快だった。そんな中でこういう書物を出版できたのは満足だ。
12.英国人は、漱石のことを「神経衰弱」と言い、ある日本人は「狂気」だという書を本国に送った。
 しかし、その「神経衰弱」と「狂気」のおかげで、「吾輩は猫である」などの創作が可能になったので、神経衰弱と狂気に深く感謝する。
13.漱石は、神経衰弱と狂気によって否応なく創作のほうへ向かわされるので、「文学論」のような学理的閑文字を弄する余裕がないので、これを唯一の紀念としたい。
 ―――――
 「文学論」の序には、ざっと以上のようなことが書かれている。
 おもしろい言い回しが随所に見られ、「吾輩は猫である」に通じる発想があらわれていると思うが、特に、ぼくが注目したのは、漱石の「決断力」である。十年計画を立てた「文学論」だったが、小説のほうが書きたいと思えば、あっさりと文学論を途中で投げ出してしまった。友人にまかせきりで。「未定稿」であることを自覚していながら、そのまま出版してしまった。おそらく優先順位というものがあったからだろう。限られた人間の命の中で、時間も限られている。
 これと類似の決断は、ロンドン時代に、英語の書物を読むだけの勉強を投げ出し、「文学論」をまとめようと決意したときにも見られると思う。
大学も学ぶものがないと思えば途中で行かなくなったし、個人教授を受けるのも一年でやめてしまった。
 しばしば言われるように、下宿にこもったり、公園や図書館でひたすら本を読み、メモをとる、神経衰弱の狂人の姿が夏目漱石像として定着したのだろう。
 しかし、「文学論」の序を読む限り、このロンドンの二年間こそその後の漱石の不朽の傑作小説として結実したものが養われたと見ることもできよう。
 夏目漱石、やはりその知性はすぐれて高く、文学への情熱は業火のごときすさまじいものがあったのだろう。今の言葉で言えば、「小説家の品格」をとことん感じさせてくれる偉大な存在だったといってよいと思う。

『文学・芸術の散歩道』内容紹介

 

『文学・芸術の散歩道』内容紹介
第二部より
XⅢ 村上春樹『1Q84』BOOK3について
        (ブログ『越落の園』、2009年11月2日)
 村上春樹「1Q84」BOOK3は、期待通りのできばえだった。
 詳しいことはまた別な機会に譲りたいと思うが、とりあえず気の付いたことを挙げておきたい。
1.ハリウッド映画を見るようなビジュアルな描写、ストーリーの展開、場面の設定、小道具の使い方など物語の作り方がたくみだ。
2.登場人物の描き方が漫画的な誇張がほどこされており具体的で特徴的でイメージを持ちやすい。
  (タマル、牛河、天吾の父、三人の看護婦など)
3.ストーリーの決着・解決の付け方がうまい。
 (天吾の父の死、母の死因と死亡時期、牛河の死など)
4.ファンタジーに傾きすぎずに、社会派リアリズムの線を守れたのは作者の意図が成功したといえる。
 (青豆の処女懐胎、リトルピープル、NHK集金人などはあるものの全体としてリアル)
 (1Q84から1984へ(あるいは第三の世界へ?)の移動の仕方が割と自然)
5.天吾と青豆の再会の成就、ハッピーエンドの展開が読者の期待に沿っている。
 (BOOK2で青豆が拳銃自殺を図ろうとしたが、思いとどまった)
6.全体として、きわめておもしろく、文章も巧みで、エンターテインメントとしての小説の魅力を存分に発揮している。
7.「1Q84」を読む限り、現在の日本人作家では村上春樹が傑出してるといえる。
 以上

『文学・芸術の散歩道』内容紹介

『文学・芸術の散歩道』内容紹介
第二部より抜粋
Ⅻ 村上春樹『1Q84』を読む!
(ブログ「越落の園」、2007年9月29日)
 
1.小説「1Q84」は、Book1とBook2の二巻からなり、それぞれ24章からなっている。主人公の、女性=青豆と男性=天吾が交互に登場するという構成がとられている。
 なお、「1Q84」というタイトルは、有名な、ジョージ・オーウェルの小説「1984」を下敷きにしているらしい。
2.青豆と天吾は、千葉県市川の小学校3,4年のときに同級生だった。特殊な家庭環境に育った二人は親しく話したこともなかったが、あるとき教室で青豆が天吾の手を強く握ったことがあった。その後二人は離れ離れとなったが、いつまでもそのときの記憶が失われなかった。
① 青豆(あおまめ)のストーリー
 青豆は、「証人会」という宗教活動を熱心に行う両親のもとで育てられたが、耐え切れず家出した。体育大学を出た後、企業のソフトボールの選手をしたあと、フィットネスクラブのインストラクターとして勤務している。
 親しかった友人環が夫の家庭内暴力に苦しんで自殺したという経験があった。
 フィットネスクラブのお客である老婦人も同様な事情で娘を失ったことがあったので、男の家庭内暴力に強い憎しみを抱いていた。
 老婦人は金持ちで麻布の柳屋敷と呼ばれるところに住んでいた。用心棒のタマルは実にしっかりして頼りになる男だった。老婦人は、家庭内暴力に苦しむ女性のために駆け込み寺のような施設を運営していた。
 青豆はそこへ出張してマーシャルアーツの個人レッスンをすることになったが、老婦人から、あくどい男を殺す仕事を依頼されて引き受ける。青豆は神経のつぼを熟知していて首筋の急所にアイスピックのような凶器を突き刺して人を殺すことができた。
「1Q84」の冒頭は、渋谷のホテルに宿泊している男を殺すためにタクシーに乗っていた青豆が、首都高速3号線が渋滞していたので、運転手に教えられて非常階段から降りるところが描かれる。そして、首尾よく殺害する場面が息を飲むような緊迫感を持って描かれる。その頃から、青豆は、月が二つ上がっているのに気づく。「1984」から「1Q84」の世界に移ってしまったらしい。
 青豆はときどき行きずりの男を引っ掛けてセックスを楽しんでいたが、偶然知り合ったあゆみと意気投合して二人で男漁りをするようになる。
 実は、あゆみは警察官だった。いずれ付き合えなくなる運命だったが、あるときあゆみはホテルで無残な殺され方をする。
 青豆は、あるとき、「さきがけ」という宗教団体のリーダーを殺してほしいと頼まれて引き受ける。
 都内のホテルに呼ばれた青豆は、リーダーとの息詰る哲学問答をかわしたのち、ついにアイシピックでリーダーを殺害する。
 その後、青豆は、身を隠すためにひそんでいた部屋から、偶然、児童公園の滑り台の上で二つの月を見上げる天吾を発見する。迷った挙句児童公園に行ったときにはすでに天吾はいなかった。
 どうしようもなくなった青豆は、首都高の非常階段のあった場所へ行こうとタクシーに乗る。しかし、行ってみるとそれはなかった。「1Q84」から「1984」への通路はないらしかった。
 青豆は。かねてタマルから手に入れていた拳銃を自分の口に突っ込んで発射させる。
② 天吾(てんご)のストーリー
 川奈天吾は、NHK集金人の父親に育てられた。
 一歳半ごろ、母が白いスリップ姿で父以外の男に乳首を吸わせている場面が、鮮明に記憶に残っている。
 天吾はやがて家を出て、剣道選手としての活躍により高校、大学をなんとか卒業して、予備校の数学の講師になった。少年の頃は数学の神童といわれたが、もはや数学で名を成す野心はなかった。そのかわり、小説を書こうという気がわいてきて、文学賞に応募するようになった。そこで知り合った編集者の小松から、新人賞に応募してきた「ふかえり(=深田絵里子)」の小説「空気さなぎ」を書き直してほしいと頼まれる。ストーリーはいいが、文章が拙いからだということで。
 迷った挙句、天吾は引き受けるが、ふかえりは、センセイ(=戎野先生)というひとに会ってほしいというので、二俣尾まで一緒に会いに行く。そこで、天吾は、宗教団体「さきがけ」や「まほろば」のことを聞く。また、深田保というさきがけのリーダーが戎野の古い友人であり、ふかえりはその娘であること、ふかえりは七年前に戎野のところへ身をよせたことなどを知った。
 ふかえりは、「空気さなぎ」という小説に「さきがけ」という共同体の暮らしで経験したことを書いたようだった。戎野も天吾が書き直すことに同意したので、書き直し作業にとりかかった。その小説は、新人賞を取りベストセラーになった。
 しかし、「空気さなぎ」に出てくる「リトルピープル」なる存在が、ふかえりが小説に書いたことを怒ってさまざまな攻撃をしてくることになった。天吾もまたそれに手を貸した者として、狙われる破目に陥った。
 あやしげな団体の牛河という男が天吾のもとを訪れて「才能ある若者である」天吾に助成金を交付したいという申し出をする。どうやら、リトルピープルとのつながりがあるらしく、脅迫じみた感じがする。
 しかし、天吾はそれをことわった。
 天吾は、しばらくぶりに、千倉の療養所に入院中の父親を訪ねる。そこで、話をするがあまりかみ合わない。それでも、父が実の父親ではないらしいことがわかる。
 天吾には、毎週金曜日に天吾の部屋にやってくる年上の人妻がいた。それが急に、夫からの電話により来れなくなったという知らせが入る。
 しばらく身を隠していたふかえりが天吾のもとへやってくる。そして、金縛りの状態で天吾はふかえりと交わる。
 天吾が外出して児童公園に行き滑り台の上から二つ浮かんだ月を見上げる。青豆と会いたいと思いながら。そのとき、青豆もまた、自分の部屋から天吾の姿を発見する。しかし、青豆が来たときには天吾はもういなかった。
 千倉の療養所からの連絡で父親が昏睡状態だということなので、天吾は千倉に行った。そこで、天吾は昏睡状態の父親に向かってこれまでの身の上話を語る。その後、検査で空いたベッドの上に、天吾は「空気さなぎ」を見る。その中に、十歳の少女つまり青豆の姿を見る。それはやがて消えてしまった。
 天吾は、帰りの電車の中でなんとしても青豆を探し出そうと誓うのだった。
③ このように、主人公の青豆と天吾は、運命的なカップルながら、ついに直接会うことはないままBOOK2は終わる。しかし、運命に翻弄される人間にとって、愛する対象がいるということがなによりの救いであるという村上春樹の心の叫びが聞えるようで、胸に迫る。
3.「1Q84」がすぐれている点
① ストーリーの展開のうまさ
  第一章で青豆が首都高の避難階段を使って地上に降りるところの描写は秀逸であり、設定も意外性十分で、読者を、ハリウッド映画のように物語に引き込んでしまう。
② 人物造形のうまさ
  個性的な登場人物がそれぞれの特徴を明確に書き分けられている。マンガのような誇張やデフォルメはあるが、人物像がくっきりと浮かび上がるテクニックは相当なものだ。
たとえば、青豆が顔をしかめる癖、牛河のいかにもどんくさい風貌や服装など。
③ 会話のうまさ
 登場人物ごとに話し方に特徴を持たせている。たとえば、ふかえりの疑問符がなく舌足らずの話し方など。
④ トリック、小道具、引用のうまさ
 首都高の非常階段、青豆のアイスピックのような凶器、ヤナーチェックのシンフォニエッタ、ジャズ、映画俳優、拳銃、平家物語、マタイ受難曲、チェーホフのレポート「サハリン島」、短編小説「猫の町」、など。
⑤ エンターテインメント性
  随所に、誇張、ユーモア、スリル、セックス、暴力、恐怖、アイデア、トリックなどがちりばめられていて、読者を楽しませる物語としてのサービスに配慮がなされている。
⑥ 巧妙なファンタジーの活用
 「1984」に対する「1Q84」、二つの月、空気さなぎ、リトルピープル、「さきがけ」のリーダーの超能力、など空想の世界が現実の世界と重なり合って存在しているという構造。
⑦ 歴史的な事件や事実を踏まえた物語の創作
  オウム真理教、浅間山荘事件など史実についての深い認識に裏付けられた創作によって、物語にリアリティを持たせている。
4.「1Q84」の問題点
① BOOK 2 の第十五章で青豆が「さきがけ」のリーダーを殺害するところまでは「リアリズム」の範疇に収まっていると思うが、それ以後のストーリーの展開は「ファンタジー」の範疇に移ってしまったと思う。
  ・ ふかえりの小説「空気さなぎ」のストーリー紹介
  ・ 二つの月
  ・ 青豆が首都高で拳銃自殺
  ・ 昏睡状態の父親を訪れた天吾が、検査で空けていたベッドの上に、「空気さなぎ」を発見し、その中に、10歳の頃の青豆の姿を見る。
 このような展開は、「バルザックのような社会派リアリズム」「新しいリアリズム」を目指した村上春樹の意図とは違った方向に行ってしまったのではないだろうか?つまり、リアリズムで終始するはずのストーリーが最後にファンタジーに転換されてしまうということだが。その必然性がいまいちわからない。
② 上記①に比べるとマイナーな点だが、冒頭、青豆が乗ったタクシーの中で「ヤナーチェックのシンフォニエッタ」が流れるのを聴くという場面があり、天吾が高校時代にブラスバンドでティンパニを奏したことがある曲だということがあとでわかるが、こんなマイナーな曲が重要なテーマソングのように使われる事にはやや無理があるように感じられる。
③ また、登場人物の特徴をかなり戯画的に誇張するという点については、小説におもしろみを与えるという効果を持つと同時に、「リアリズム」の切迫感をそぐおそれもあると感じた。
5.今後の見通し
 新聞報道によれば、村上春樹は、今、「1Q84」のBOOK3を書き続けているそうだ。来年にでも、BOOK3が出版されれば、以上に述べたような疑問点への答えが得られるだろう。どのようなストーリーが書き継がれるのか興味津々である。できるだけ早くBOOK3を読めるように首を長くして待っていたい。

『文学・芸術の散歩道』内容紹介

『文学・芸術の散歩道』内容紹介
 
  Ⅺ エロティシズムの神髄
 
          (「樹林」Vol.682、2022年5月)
 
     ―冨上芳秀詩集『言葉遊びの猟場』について―
 
1.はじめに
 冨上芳秀は、実に精力的に詩を書き、詩論をまとめ、詩誌『詩遊』を発行し、自ら多くの詩集、評論等を刊行するほか、「詩遊社」として他の詩人の詩集の出版にも携わっている。
 同氏は、昨年私が編集に関わっている詩誌『詩素』の十号記念投稿詩の優秀作品の選考委員を引き受けて下さり、ZOOMによる選考委員会に参加して積極的に意見を述べていただいたことが印象に残っている。
 多彩な執筆活動を進めている冨上芳秀が新たに出版した詩集『言葉遊びの猟場』は、どんな詩集なのだろう?という問いに答えることは容易ではないが、自分にできる範囲で気が付いたことを述べてみたい。
2.『言葉遊びの猟場』出版の作者の意図
 詩集のあとがきを見ると、「私の詩の原点は世界を正しく認識したいということであった。その思いは今も変わらない。長い間、私は言葉遊びというものを敵視してきた。それは私の立ち位置と全く真逆のものであると思ってきたからである。しかし、日本語という言語の特質とか機能というものの不思議な働きを意識するにつれて、その機能の可能性を追求する実験をしたくなったのであった。」「私の考える実験はすでに誰かがやった方法で詩を書いてはいけない。それは方法の模倣であって実験にはならないからである。」とある。
 冨上は日本語による文学表現の可能性をとことん追求してきたうえで、ついに「言葉遊び」に踏み込んだのである。詩に対する情熱やエネルギーにおいて類例を見ない横溢ぶりを示す冨上の限りない詩への挑戦は、戦慄を禁じえない激しさを持っている。
3.詩集の詩篇に即して
 冨上のその厳しい姿勢は、冒頭の詩作品「闇の中の読者」に如実に表れている。
  (前略)私は脳髄の片隅にガンのような一人の根深い読者を住まわせている。「おい、そんなものじゃだめだ。それはおまえの過去の抜け殻だ」男は     
不快感そうな顔を歪めて呟いた。「そんなものは詩ではない」また、孤独な男は私に向かって暗い声で冷たく囁いた。
 ここには詩人ならだれでも感じる詩の出来栄えの評価の困難さの問題が恐ろしいまでにリアルに描かれている。冨上の自分が書く詩への厳しい姿勢が非常によく表されていると思う。
 詩集には三二篇の詩篇が収められているのだが、最初の詩で創り出した厳粛な雰囲気を次第に覆すかのように「言葉遊び」の実験詩が並んでいるのは壮観である。
 タイトルポエム「言葉遊びの猟場」は、アルマジロなど十匹の動物が獲物として言葉遊びの限りを尽くして描かれる意欲的な作品となっている。
 「大阪のかやく御飯」は、大阪弁の面白さを徹底的に駆使して思わず笑いを誘う佳肴である。
 様々な言葉遊びの詩篇を通読して感じることは、冨上の本領はエロティシズムにあるのだということである。
 たとえば、「恵型窯玉頭」の一部、
  恵肩釜玉頭
  メグミのつるんとした肩
  お釜を掘りたくなるような魅力的なお尻
たくましい玉
頭をそのままっ突っ込みたいほど
淫らなことで充満している私の頭
には、言葉遊びとエロティシズムが相俟って読者の感情を強く刺激するものがある。
また、「言葉のエロチックな意味のない運動」は平仮名だけで書かれた流れるような言葉の使い方が巧みな詩であり、エロスと笑いが見事に融合している。
「口八丁手八丁」もまた、言葉が自由に動き回ってエロティックな笑いに満ちている。
4.詩とエロティシズム
 エロティシズムは古今東西人間が生きることに深くかかわりそのとらえ方も国により時代により様々な変遷を示してきた。古代ギリシャ時代に、エロス、フィリア、ストルゲー、アガペーという概念が登場したり、アフロディーテの大理石像が彫られたり、浮世絵の春画が人気を呼んだり、逆に裸体画が道徳的な批判にさらされたり、宗教的な取り扱いにおいて姦淫が禁じられたり、逆に男神女神の信仰が広まったり、肉体的な欲求と精神的な欲求が比較されたり、ポルノグラフィーとの違いが論じられたり、映画や演劇さらには医学や哲学などさまざまな分野において取り扱われてきている。
文学でも性愛の描写はしばしば現れるが、「わいせつ」だということで刑法違反を問われた作品も少なくない。ちなみに、わいせつとは、「徒に性欲を興奮または刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反すること」とされている。
刑法は犯罪を取り締まり刑罰を科すことを目的にしているので、わいせつ罪を看過することはできないが、文学はそうした罪科を離れて自由な発想と行為をすることを目的にしているので、わいせつなことも頭で想像したうえで法的に可能な限り言葉で表現しようとする。
法律や宗教や道徳などが罪を規定し罪を犯すことを禁止し罪を犯した者を罰するという性格を持つのに対し、文学は罪がなかったとしたらどんなふうに考え行動しただろうかと想像する。そこから生み出される作品を発表する段階で罪とならないように加工するのである。
おそらく冨上は意識しているかどうかは別として、エロティシズムがいやらしさとか不潔だとかの表面的なとらえ方よりはるか深い所で人間存在に関わっていることを感じ取っていると思う。そこに冨上の詩はまさに「エロティシズムの神髄」ともいうべきものを射当てているのだと推測する。
冨上が今後どんな詩を書いていくのか興味津々であるが、言葉遊びも加えて更に広がったキャパシティーを生かして、エロティシズムやそれ以外のテーマの詩を書いていくことを期待したい。『言葉遊びの猟場』における詩の実験は完全に成功したということを伝えたうえで。

Kindle版小説『奇跡の歌声』への読者からの感想

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ある読者からの感想

「ストーリーがうまく流れるので面白くついに貫徹。電子書籍初めて。貴重な体験。助言の通り、アプリ取れて、新な分野が広がりました。
読みやすく分かりやすく、またオペラ関連やワーグナーへの深い洞察に、ハウツー物の知識がでしゃばらずに表記され、とても好ましい。半端なオペラやワーグナー通ではないことが伺えて、それも楽しい読書の味わい。(楽しい)肩の力を抜いて本の世界に没入できる。直木賞の世界に通じていく本だと思います。
電子書籍、初体験のスマホ操作にヒヤヒヤしながら読み終えた充実感あり。」

 

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