南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『ツイッターの功罪』(価Ⅲ=その5)

    
 
      『 ツイッターの功罪 』
                              (価値観の研究 第三部 その5)

1.ソーシャルメディアとはなんだろう?

 ミクシイ、SNS、ツイッターフェースブックなど、いわゆる「ソーシャルメディア」といわれるシステムが、インターネット上で、口コミ的な情報発信・交換・収集の場として目覚しい発展を示している状況を見ると、コミュニケーションの方法に革命的な変化が進行中であることに気づかされる。

 言うまでも無いことだが、メディアというのは、従来は、新聞、テレビ、ラジオなど、商業的な報道機関が視聴者や購読者に対して一方的に情報を送るというのが原則的な形態だった。投書欄などがあるものの双方向の発信は例外的でしかなかった。

 ところが、インターネットの発達により、資金力や情報力や販売力の乏しい、一個人でも、容易に情報を発信し、受信し、交換できるようになってきた。知人、友人、仲間の間のやりとり、口コミ、といったものを通じて思うままの発言が可能になった意義は大きい。売れる発言かどうかの選別を受けることなく玉石混交の発言がインターネット上に大量に出回り始めたのである。

2.ツイッターの功罪

 ソーシャルメディアにはそれぞれの特徴があり、利用者もそれに応じて メディアを選択しているものと思われる。
 その中でツイッターの特徴は、手軽につぶやけるということだろう。一回140字以内という制限はあるが、何度でもつぶやけるし、フォローというかたちでメンバーを選択すればその書き込みが自動的に流れてくる。
 手に入れたい情報を選べばリアルタイムで入手もできたり、興味のあるメンバーの発言や動向も入手できる。それはとても便利で楽しくて魅力的だ。
 だが、他方で、ツイッターには手軽さゆえの危険性や問題点もひそんでいるように思われる。
 新しいつぶやきに古いつぶやきは押し下げられて、どんどん過ぎ去っていくが、その一過性もまた気楽なつぶやきを助長する。その気軽さゆえか、ついつい本音のつぶやきもしてしまいがちだ。
 ひとは思うことをすべて口にすると時として愚痴や批判や悪口が混じりやすい。表現の自由は尊重されるべきだが、行き過ぎた発言や誹謗中傷は避けるべきだと思う。個人的な日記や仲間同士のおしゃべりならかまわないだろうが、ツイッターも公の場である以上、社会的な配慮が必要ではないだろうか。
 特に、特定の対象を批判するとき、独特の感情が増幅されて、ときにより「炎上」などという事態も発生する。社会的な感情や気分というものはとても怖い者だ。個人ではコントロールできなくなることがある。
 世論の形成、誘導、操作というような政治的な側面さえおびてくることもあるようだ。
 ツイッターというメディアが登場して間が無いので、その功罪について結論めいたことを言うのは早計に過ぎるとは思うが、公の場で発言する以上は、「マナー」や「エチケット」というものは最低限必要なのではないかと思う。日々、ツイッターの発言を自分なりにフォローしてみてそんなことを感じるこの頃である。
 ともあれ、ソーシャルメディアという場を通じてだれでも気軽にかつ手軽に発信できるというプラスは否定すべくも無い。その活用を推進する中でリスクを最小限に抑える工夫も待たれるところだと思う。