南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

フィクションとノンフィクション

 フィクションになんの意味があるのか?という長年の疑問がある。

事実こそ意味があるのではないか?科学の真実。歴史的事実。

事実を正確に把握し記述するだけでも労力がいる。

科学の発展のためにも膨大な時間とお金と才能と労力が必要だ。

小説などを書く暇があったら世の中に直接貢献できることをすべきではないか?

ごみ拾いでも配達でも介護でも雑用でも・・・。

たしかにそう言われるとそのような気がする。

だが、「待てよ!」という声も聞こえる。

そんなに単純なのか?

芸能やスポーツというエンターテインメントも人間には必要だ。

文学もそういう娯楽のためにあるのではないか?

出発点はそんな気がする。

では、現代詩と言われるようなあまり読まれることのないものになんの意味があるのか?

厳しい問いだ。

マイナーな精神活動も人間社会には必要なのではないか?

証明はむずかしいが、

売れないものにも価値があるという場合があるのではないか?

売れない小説や詩歌を作る人はそれなりに存在する。

ブログなどという便利な場が登場して

マイナーな表現者には便利な世の中になった。

商売じゃなくて

暇つぶしの延長線上でも

もちろん真剣な創作活動としても

こういう活動の場があることはいいことだと思う。

役に立たないものが存在しうるってことが

文化の先進性のあらわれかもしれない。

ひょっとして害悪を与えかねないが

きっと人類の英知が守ってくれるだろう。

フィクションの意味?

詳しくは述べられないが

書く側から見ると時々迷いが生じる。

でも、微妙になにかが感じられるのでやめられない。

迷いながらも手探りで創作し、

結果を見てもらうしかないような気がする。