南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

想定する読者はだれか?

 詩を書くときにだれに向かって提出しようとしているのか?

最近、詩人同士で話題になった。ぼくも詩人のはしくれとしてあらためて考えてみた。

会って話すときは、相手がはっきりしているのでわかりやすい。一対一。数人。10人。20人。50人。100人。300人。1000人。大きすぎるパーティで同時に話が成り立つのはせいぜい数人だろう。あとは話し相手を変えていく。

会議なら、説明と質問、意見交換。というかたちがとられる。あくまでも出席者が対象。

講演会の講師なら、出席者に向けて話す。

詩の朗読会ならやはり出席者に向けて。

では、こういうインターネットではどうだろうか?

極端に言えば不特定多数ということになるだろう。つまり、老若男女、地域を問わない。

しかし、現実を見ると、このブログを読んでくれる人は一日にひとりかふたりしかいない。

可能性と現実には大きなギャップがある。

それでも意識としては、不特定多数を想定して、話しかけるわけだ。

そのとき使う言葉は、友人知人と世間話をする言葉と違うのだろうか?

世間話をそのまま詩にできないだろうか?

ちょっと手を加えれば、話し言葉を使って詩は成り立つとぼくは思う。

では、話し言葉以外の言葉を使わないと書けない詩というものがあるのだろうか?

むずかしい質問である。

答えはイエスである。

現にいまここで書いている文章は書き言葉と言ってよい。

話し言葉と書き言葉は重なる部分と重ならない部分があるようだ。

そこを十分踏まえて詩を書かないと、あるいは小説や評論を書かないと的確な表現ができない。

具体的な作品で説明するのがわかりやすいだろうから、いずれやってみたいと思うが、

今回は想定する読者の話なので触れないでおきたい。

ひょっとすると、自分が対象なのかもしれない。

「自分=人類全体」といった感覚が、無意識に働いているのかもしれない。

普遍的な言葉と思う言葉をどのように選び取るか?

表現したい内容とかかわってくるのだろう。

書き言葉がふさわしいときには書き言葉。話し言葉がふさわしいときには話し言葉

ひとつの作品のなかにそれらが同居してもよい。

ひとつの作品として文学的な効果をあらわせるかどうかが問題だ。

作品として成功していさえすればいい。

モーツァルトの音楽も人類全体に愛されているといえるだろう。もちろん、厳密には愛好者によってということだが。モーツアルトが想定した聴衆は、依頼主の王侯貴族だったのだろうか?一般民衆をも含む不特定多数の人間だったのだろうか?定かではない。

結果的に、多くのひとびとに愛されているだけなのかもしれない。

とすれば、作者はだれを想定して書こうが関係ないとも言える。

できあがった作品を読者がどう受け入れるか?それだけが問題だということになれば。

創作者と鑑賞者の関係はおもしろい。残酷でもある。熱狂的に受け入れられていた詩人が急に見向きもされなくなったり、ずっと無視され続けていた作曲家が突然評価されたり。

人間は気まぐれなものだ。芸術家の評価も変わりやすいものだということを肝に銘じておく必要があるだろう。

さて、ぼく自身について言えば。現代人の感性を現代人の言葉によって可能な限り感動的に表現したいと思う。想定する対象は、はじめはきっと自分自身だ。出来上がった作品を読者の目で読み、批評を加えて、推敲を加えて手直しする。納得できたら、世間に発表する。他者の反応を踏まえて自分自身の評価を修正する。次の作品を書くときに反映させる。こんなふうなサイクルかという気がする。

ぼくの最初の読者は自分自身であり、明確に想定できるのも自分自身ということかもしれないなあ!