南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

詩について思うこと(その1)

  「詩界」(No.251)(平成19年9月日本詩人クラブ発行)に発表した、エッセイ「詩について思うこと」を転載する。

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    詩について思うこと

                                南原 充士


一. はじめに
 
今回、「現代詩への提言」について寄稿依頼を受けて、いざ書き始めようとしたとき、どうも「提言する」というのはわたしの柄ではない、むしろ、詩を書いたり読んだりする者のひとりとして、詩についてどんなことを考えているかということを述べたほうが適当だという気がしてきました。ということで、ここでは、最近わたしが詩を作る立場からまた読む立場から、気になっていることをいくつか取り上げてみたいと思います。

二. 口語と文語そして古文と現代文
 
明治時代においては、「言文一致体」ということが文学活動で大きな意義を有していたわけですが、そういうことが叫ばれたということは、当時は話し言葉と書き言葉に違いがあったということを示しているのでしょう。
 では、平成の現在、言文は一致しているのでしょうか。おそらく単純には答えられないと思います。法律の用語や判例などはどうも日常生活の話し言葉とは乖離があるような気がしますし、専門的な分野では往々にして書き言葉が話し言葉とずれているという傾向にあることに気づきます。
 さらに、古典芸能である、歌舞伎や能・狂言古典落語、講談、浪曲といったジャンルにおいては、話し言葉と書き言葉という違いに加えて、現代文か古文かという違いも存在するわけです。
 俳句や短歌は、古文がベースとなっていて、現在でも、古文が使われる場合の方が、現代文で作られる場合よりずっと多いような気がします。
 詩は、いろいろなスタイルが見られますが、多くは現代文で書かれていると言ってよいのではないでしょうか。
 わたしは、詩作においては、「現代人の感覚を現代語で表現すること」を優先すべきだと考えています。したがって詩が現代文で書かれていることはもっともなことだと思います。ただし、現代文と言っても、厳密には、口語と文語のちがいが若干はあるような気がします。口語は、年齢や職業や地域などによって多様性に
富むとともに、常に変化し続けていると言えるでしょう。文語は、文法や辞書に示されるような固定的な要素もあり、それと違えばおかしいと指摘されるという規範性をもつものだと言えるでしょう。

三.定型詩と自由詩
 
俳句や短歌のもつ定型は、はたして今の時代に合っているのでしょうか。 5・7・5・7・7 という音数律は、過去においてはゆるぎない美的な表現スタイルだったでしょうが、はたして今の日本人の感覚にぴったりしているかどうかは疑問があると思います。国語というのは、ふだん無意識に使う言葉なので、意外と、客観的にとらえるのが難しいような気がします。そこで、いろいろな詩や小説の文の音数を数えてみると、おもしろいことに、5・7・5・7・7というような奇数だけの表現は少なく、また、4・6・8・10といった偶数だけの表現も少なくて、偶数と奇数の音数が混じった文(たとえば、4・6・7・8・5・10・9・4)が多いことがわかります。もっと言えば、一つの文について見ると、偶数音数の割合のほうが奇数のそれを上回るのではないかと感じています。これは、話し言葉、書き言葉共通に言えると思います。私見では、現代人が無意識に5・7・5・7・7の韻律から逃れようとする傾向が現れているからではないかと思われます。
 それでは、自由詩というのはほんとうに自由な表現を可能にするものでしょうか。わたしの実作経験では、詩は、意識するともなしに、定型を求めているような気がします。たとえば、十四行詩のソネット形式はその代表例だと言えるでしょう。起承転結を満たすには四つのパートに分けるのが便利だと思われます。わたしも四部構成を基本としてバリエーションをつけることが多いです。
 また、行分け詩と散文詩という分け方についても、どういう違いがあるのかしばしば議論がなされます。一概には言えませんが、両者は、文体、リズム、行の独立性、切れ、飛躍、見た目等に違いがあり、単なる気分や好みではない必然性があるのかと思います。
 なお、欧米の詩では、韻を踏むのが一般的なようですが、日本語の詩では、言語構造の違いもあって、韻を踏むということが成り立ちにくかったのだと思います。5・7・5というような音数だけのリズムを持つ日本語の詩歌に対して、強弱のリズムや韻律を求めることにおいて欧米の行わけ詩は、散文詩と区別されやすかったのでしょう。
 もっとも、漢詩などは、もともと韻律のあるものを、特殊な読解法を編み出した日本人が違う種類の韻文に変換してしまった特異なケースだと言えるでしょう。
 また、散文と散文詩の区別もむずかしいですが、詩と散文の違いはなにかという観点に戻って考える必要があるでしょう。
 詩は、「時空を切り取り、イメージを展開させ、象徴的な言語表現技術を駆使する」ところに特色があるのに対して、散文は、「あくまでも時空を充填し、ディテールを説明し、ストーリーを展開する」ところに特色があるのだと思います。

四.詩とフィクション

 小説の場合は、作家と小説中の登場人物は違うのが当たり前で、作家らしい主人公が「私」という一人称で語っていくという小説が特別に「私小説」と呼ばれるぐらいの状況です。その私小説でさえ、ややもすれば、フィクションが交えられるというわけです。
では、詩においては、どうでしょうか。詩は、小説よりは、書き
手の生活や感情を率直に表すことが多いような気がします。読み手のほうから書き手に対して真情や経験を求める傾向が強いからでしょうか。詩においては、フィクションは、勧められる技法ではないと考えるひとが多いように感じられます。
しかしながら、詩にフィクションが駆使されない理由は乏しいと
思います。変にまじめな倫理観にこだわるような詩人も多いように感じられますが、詩は、あくまでも文学のひとつのジャンルなのですから、上手な嘘はつくべきだと思います。詩作品の中では若い女性の立場で書いていても、作者は実は老いた男性であってもなんら批難されるべきことはないのだと思うのですが・・・。

五.想定される読者

 では、詩はだれに向かって書くのでしょう。特に意識しないケー
スもあるでしょう。子供向けや青少年向け、あるいは、女性対象とか、男性対象とか、高齢者向けとか、世界全体の人々向けとか、いろいろなバリエーションがあってよいと思います。だれかからの依頼で報酬を得て詩作する場合は、主な対象をだれにしてほしいというような指示がなされることもあるかもしれません。いろいろな場合が想定されますが、ほんとうは、自分に向かって書くというのがもっとも自然であり、あるべき姿なのかもしれませんね。大切なのは、どんな読者を想定した場合であっても、ひとたび想定した読者に対して書くべきテーマを決めたなら、あとは、それにふさわしい言葉を採用し、表現技巧の限りを尽くして詩を書き上げるということだと思います。
 書き手と読み手は、先ず詩を書いた本人というひとりの人間の中から始まります。
 次に、読み手がそれぞれの読み方をして読み手から書き手に感想が伝わり、書き手と読み手の間の相互作用が展開されることになるのだと思います。
 そうして、読み手相互の意見の交換や書き手との相互作用を通じて、書き手は、次の詩作への準備とモティベーションを与えられるというひとつのサイクルができていくのではないでしょうか。

(続く)