南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『文学における言葉の役割の再検証=詩を中心として』(その2)

     『文学における言葉の役割の再検証=詩を中心として』(その2)



4.社会の変化と言葉の変化

 言葉の本質が概念化にあるということを仮定すると、言語表現とは、点や線や断片を用いてデッサンを描くような作業だととらえることができる。
 
 そこには余白をイメージさせる機能が付いて回る。

 現実に使われる言葉は、辞書にあるように画一的な意味合いで使われるわけではない。
 ひとぞれぞれにちがった意味合いや感じ方を持っている。

 組み合わされた文章表現もまた個人差が大きい。

 学術研究や実用的な文章に比べて、文学表現においては感情の比重が高いという性質上、その差異がより大きい。

 それでも、言葉には最大公約数あるいは最小公倍数的な側面があるので、おたがいにおおよその理解や共感に至ることを可能にする性質がある。

 そういう手段としての役割があるから、言葉は生き続けるとも言える。

 言葉という手段を用いていかにたくみに文学表現ができるかは常に追求されてきたので、なにがすぐれた言語表現かどうかを知るには、過去のすぐれた作品を鑑賞するのがとりあえず早道だろう。

 表現技巧やレトリックや修辞学といわれるものは貴重な財産だと言える。
 しかし、社会が変化すれば、ひとびとの感性や言葉も変化する。文学表現の方法や内容も変化し、評価基準も変化する。そのときどきの書き手と読み手が切磋琢磨してなにがすぐれた表現かを求め続けるしかない。

 言葉は現実社会と密接に関わっている。言葉は社会の一部でもあり、社会を対象としてとらえる手段でもある。

 言葉と社会は相互作用をする。言葉は、社会の中に生きる人間の全体または部分あるいは個人と相互に関わりあう。

 したがって、まず現実社会を正確に観察し把握する洞察力とそれを的確に表現する言語技術が求められる。

 単純化すれば、文学とは、洞察力と言語技術に帰する。

5.「翻訳」の多義性・多様性

 これまで、言葉の重要な機能が「概念化」にあること、したがって文学は、現実認識(=洞察力)及び概念としての言葉をいかに使うかの技術に帰することを述べたが、次に、「翻訳」もまた言葉の重要な機能であることに触れたい。

 「翻訳」というと、ふつうは異なる言語の間での翻訳のことを指す。たとえば、英文和訳、和文英訳などのように。

 それが可能なのは、言葉のもっている機能が共通しているからだ。概念化をはじめとして、文法、語彙、発音、アクセント、文字などがその要素である。
 
 翻訳には、音声やアクセント、文法構造の相違などから、一定の制約、限界がある。特に文学、とりわけ詩歌においてそれが著しい。

 最近話題になった「日本語が滅びる」ことを警告した著書では、国際語である英語によってローカル語でしかない日本語が滅ぼされるおそれがあるという指摘がなされている。

 国語を失うことは国民のアイデンティティを失うことだ。
 国語を守り育てようとする努力なしには、国語は維持されない。

 一方で、その著者は、「翻訳」の重要性を強調している。
 日本が国際社会で生きていくには外国語とくに英語の能力は不可欠だ。ただし、一定の割合の英語のエキスパートがいればいいと指摘する。

 その論旨のすべてに賛同するわけではないが、言語の間の力関係に注目し、翻訳について新たな視点からの分析を試みた炯眼には敬意を表したい。

 ところで、話は戻るが、わたしは、翻訳というのが外国語間の翻訳だけではなく、同じ言語においても常に行われているのではないかと考えている。

 たとえば、日本語においても、日々変化がみられるとすれば、昨日の日本語は今日の日本語によって翻訳されるはずである。10年前、20年前、30年前、 100年前、500年前、1000年前の日本語も、それぞれに今日の日本語によって翻訳されるべきである。

 実際には、1000年前の日本語の50年前の翻訳(たとえば、源氏物語の現代語訳)もまた、今日に生きている。さまざまな時点の日本語が混在しているのが現実だ。

 源氏物語の現代語訳も時代が変わるにつれくりかえし行われている。

 現代語訳の現代語訳みたいな翻訳もありうるだろう。

 そのような「翻訳」の視点からすれば、すべての言葉は「今日」の日本語によって翻訳されることが望ましいとわたしは考える。それはほとんど不可能だと思われるが、姿勢としてはそうありたい。

 なぜなら、言葉が変化するのは、社会が変化し、人間が変化していくからであるので、それをフォローしようとすれば言葉の変化もまた正確にフォローされるべきではないか。それによって正確な「現在」が把握され表現される。

 この姿勢は決して過去の日本語を否定したり軽視したりするものではない。今日現在との変異を意識しさえすればよいのである。言葉が無意識に使われるとき、このような意味での言葉の混在を自覚するのはむずかしい。やはり、意識的にフォローして翻訳しようとする努力が必要ではないだろうか?


 では、なぜそんな面倒くさいことをするのだろうか?

 それは言葉が変化していくものだから、きちんと時系列でワッチしておかないと言葉が現実感覚から遊離するおそれがある、つまり、「言葉の現在=言葉の現代性」を見失うおそれがあるからだと思う。

6.個人レベルでの「翻訳」

 次に取り上げたいのは、個人レベルでの言葉の問題である。

 「今日の日本語」といっても、標準語として擬制されている日本語と個人の日本語には大きな差がある。

世代、男女、地域、職業、学歴、家庭環境、価値観、言語意識、などによって個人差は多岐にわたる。

 また、方言もある。

 NHKアナウンサーのような比較的標準仕様の日本語は例外として、一般的には、ひとそれぞれの日本語を話し、他人の日本語を自分なりに解釈する。

 そこには、理解、誤解、曲解などが複雑に絡み合う。

 それでも、なんとなく通じたように思えればコミュニケーションの手段としての言葉の役割は果たされていることになる。

 このように個人間で誤差を伴いながら使われる言葉の性質を考えれば、ある個人は他の個人が言ったり書いたりした言葉を自分なりの表現に翻訳しながら理解し感じようとするはずである。

 翻訳は大きなレベルから小さなレベルまでさまざまなかたちで行われると言ったのはそういう意味である。

 ある詩を読むときもそのような翻訳作業が行われているはずであり、個人間の差異が比較的大きいがゆえに詩の理解はばらばらで評価も分かれる。

 では、ある詩のよいわるいを評価する基準はありえないのだろうか?

 そんなことはないと思う。

 これまでに書かれた詩についての評価を仔細に検討すれば、おのずからある程度の基準は見えてくる。そこには、比喩、隠喩、引喩、換喩、象徴、本歌取り、倒置、起承転結、リズム、語感、擬人法、反語、詠嘆、省略、リフレーン、言葉遊び、写生、夢、シュールレアリズム、モダニズム、抒情、叙事、などのさまざまな技法(レトリック)が受け継がれている。

 その上で、現在における、ポエジーのありかをさぐりながら、新しい感性を表現しうる詩を現在の言葉で書き表すということが詩作の実践ということになるだろう。


 要すれば、最先端の洞察により言葉を常に最先端でとらえ、人間の感情を揺さぶりうる詩作品を生み出すことが求められるのではないだろうか?