南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『文学における言葉の役割の再検証=詩を中心として』

    『文学における言葉の役割の再検証=詩を中心として』(その1)



1.言葉の限界

 脳科学の発達で脳の機能についての研究が目覚しい進歩をとげている。

 個人の心理や行動だけでなく、集団としての心理や行動についても、社会心理学や神経経済学といったジャンルからのアプローチがなされている。

 人間はすべてを意識しコントロールできるわけではないことは明らかだが、言葉についても同様に完全なコントロールなど望むべくもないと思われる。

 言葉にできないことがあるとして、言葉でそれを表そうとすることをどう考えたらいいだろう?

 書き手によって姿勢は異なるかもしれない。

 わたしは、言葉によって取り扱うことができないことがあっても可能な限り挑戦したいと思っているが、限界があることも認めざるをえないと思う。

 では、言葉で表現できることならすべてコントロールできるだろうか?
それもまた不可能だと思う。
 
 自分の体でありながら、不随意な部分がいっぱいあるのが人間だと思う。隔靴掻痒の感がある。

 そうした思うようにならない感じが人間存在につきまとい、言葉にも反映し、無軌道に走りたい衝動に駆られるのだろう。

 しかし、わたしは、実際以上にわけのわからない表現に走ろうとは思わないし、わかりやすい表現に安住したくもないと思っている。

 真摯に現実を見つめて可能な限り科学的論理的に表現したいというのがわたしの基本姿勢だ。それでも、意識や感覚は好き勝手に働き、言葉もまた論理や科学を超えた世界に行ってしまうことがあるので、ぎりぎりのところで、矛盾や非論理や支離滅裂を受け入れざるをえないと思う。

2.言葉による風景の描写

 わたしは散歩中に紅葉しつつある街中の木々を見てふと次のようなことを思った。

 絵画なら木々を色と形で面的に描くことができる。

 言葉は、どのように描くのだろうか?

 断片的な言葉を並べて描写するしかない。

 断片的な言葉を並べて、風景を描くということには、どうしても空白を補う想像力の喚起が必要だ。

 空の色、雲量、雲のようす、天候、季節、木々の種類や大きさや形や色や配置、道路や建物の配置、人、車、犬、猫、鳥、蝶、川、広告、騒々しさ、にぎやかさ、などから描きたい内容に照らして必要な事物を抜き出して言葉に変換するという作業をするのだろう。

 音楽はどうなのだろう?

 やはり景色から得られた情報や印象をリズムやメロディーに変換して構築するということなのだろうか?

3.言葉の本質としての「概念化」

 現実を言葉で描くということには、実は重大な飛躍が背景にあったのではないだろうか?

 外界が人間の感覚と思考によって言葉になるという仕組みはとんでもない発見だといえる。

 存在論と認識論に似た図式だろうか。

 さらに言語論が加わる。

 言葉でなにかを表現するということは、概念化、抽象化、取捨選択といったプロセスを経ているのではないか?

 風景を描写するという単純な作業でも、言葉による場合は、なんらかのシステマティックな変換が必要であると思う。

 人間が、自分の感情や願望や行為を描くときも、学問や科学に関する論理を展開するときも、公的な意思を表明するときも、ビジネスにかかわる情報や広告を発するときも、その他さまざまな場合に言葉は使われるが、そこに共通する仕組みは「概念化」という働きであるような気がする。

 以上は、単なる思いつきに過ぎないので科学的な証明はできないが、直感的にはそう感じる。

 言い換えれば、言葉は、概念化によってはじめて機能する。概念化は他者とのあいだで言葉を流通しやすくする。そこには言葉を追うだけでなく、余白を含めて全体をとらえようとする想像力が求められる。

 実用的な言葉の使われ方の場合にのみならず、文学のような場合においても、表現技術という意味では共通したシステムがあるような気がする。

 (補足説明)

 たとえば、ここに一個のりんごがあるとしよう。

 「りんご」はりんごという果物を一般的に示す抽象的な概念をあらわす言葉だといえるだろう。

 ではここにある特定のりんごはどのようにして個別具体化されるだろうか?

 赤いりんご、大きなりんご、おいしいりんご、とりたてのりんご、高級なりんご、みずみずしいりんご、ジョワゴールド種のりんご、などいろいろな形容はできるが、どこまで行っても、この一個のりんごのすべてを表現することはできない。

 絵なら、一応、この特定のりんごの写生をすることを通じて見えているかぎりの全体を表現できるが、言葉はそれができない。

 言葉は、現実をまるごと写すのではなく、概略のかたちや性質を示す事ができるだけだ。

 意識が存在を全的にとらえても、言葉はそれを概略的にしかとらえられない。

 以上のような考え方を、「概念」という言葉で表現したわけである。