南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『 芸術の論理 』

 
      『 芸術の論理 』について

 
1.芸術の価値をどのように評価するかは難しい問題だ。
 芸術は客観的な評価基準が確立されにくい。どうしても主観的な評価がなされやすい。それは往々にして好き嫌いという好ましくない評価基準に行き着く。
 それではどうしたら、すこしでも客観的な評価基準が成立するのかについて考えてみたい。

2.芸術は、人間と切っても切れない。過去の芸術作品を鑑賞してわかることは、みな人間が価値を与えてきたものであることだ。
 そういう意味では、社会が変わり人間が変われば、芸術への価値判断も変化してふしぎはないということだ。芸術に永遠などないと考えたほうがよいだろう。
 ぼくが言いたいのは、永遠の評価基準ではなく、現在における評価基準だ。
 

3.芸術の歴史を振り返るとき、美術ではレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロ、音楽では、バッハ、モーツァルトベートーヴェン、文学では、シェークスピアトルストイドストエフスキーバルザックボードレールなどが画期的な功績を残したといえよう。

 日本でも、美術では、源氏物語絵巻俵屋宗達尾形光琳葛飾北斎歌川広重菱田春草、文学では、紫式部松尾芭蕉夏目漱石森鴎外、音楽では、雅楽文楽、能狂言、歌舞伎など、特筆すべき作品がある。

 今見てもそれぞれの到達点の高さに驚かされ敬意を表さざるをえない。
 その芸術性の高さの秘密をさぐってみたいところではあるが、ここでは話をかんたんにするために、文学とりわけ詩をとりあげて論じてみたい。

4.「科学的な論理」においては、言うまでもなく、論理学的な意味での論理性が問われる。だが、芸術表現においても「芸術の論理」というべきものがあり、それに反すれば芸術としての完成度が損なわれる。

 一篇の詩を読むとしよう。現代詩と言われるタイプの詩は、イメージや言葉の飛躍をとことん試みるので、理解しにくいものも多い。行わけ詩ならある行から次の行への飛躍がいかに大きいかが注目される。あるいは、散文詩なら言葉やイメージの展開の意外性が問われる。

5.現在、現代詩を書く詩人がコラージュのような詩を書くことがある。いわば相互に無関係に見える事物やイメージや言葉や情景や感情がコラージュのように並ぶスタイルである。こういうスタイルは詩として成功しているかどうかの見極めがとても難しい。もし飛躍が大きいほどいいならまったく関係ないものを無秩序にならべることが推奨されるだろう。だが、ポエジーはなんらかの美意識を必要としているはずだし、同系色と反対色における色の調和と同様の意味合いにおいて、言葉の間の関連性や調和がなければ、詩としての完成度を期待できないのではないかと思う。
 それは、かならずしもコラージュスタイルの詩に限らず、すべての詩作品について言えることだと思われる。すなわち、詩は第一行から最終行までが全体としてひとつの調和を持ったものでなくてはならないということである。散文詩であれば、最初の部分から最後の部分までのまとまりが問題である。

6.上記のような意味合いで、詩の言葉の展開が飛躍しすぎることなく連関性の糸で全体が貫かれるとき、「詩の論理」が成立しているといえる。「芸術の論理」のひとつとしての「詩の論理」が成り立っているかどうかを見極める作業がやはり求められるのであって、それなくしては荒唐無稽、支離滅裂、醜悪という域に落ち込んでしまうはずだ。
 
7.芸術は、芸事の要素がある。芸事は基本的な技術を積み重ねて身につける必要がある。詩作においても言語表現技術を常にチェックして磨いておく必要がある。起承転結、比喩、擬人法、倒置法、リズム、韻律、言葉遊び、などの技法を駆使する技術をたいせつにする必要がある。
 これまでも繰り返し強調してきたことだが、詩作のポイントは、「洞察力」と「言語技術」につきる。この二点を徹底して追求してたゆみない努力を続けることによって、「詩の論理」もまた身につけることができると思う。