南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『 自己を消すということ 』

  

       『 自己を消すということ 』

                       =芸術表現の鍵としての=


1.芸術表現においてきわめて重要な視点のひとつに、「自己を消す」という
ことがある。その理由は解明しきれていないが、これまで生み出されてきた傑作といわれる作品においては共通して「自己が消えている」と言ってよい。たとえば、バッハの音楽にはバッハの生身は限りなく消されていると感じる。モーツァルトのように気ままに作曲したかのように見えても作品の中にモーツァルトの素顔は見えない。ベートーヴェンのように生きる苦悩を表現したように見える場合でさえ、曲の中に現れるのは様式化された音やリズムや調性であって、生の感情が描かれるわけではない。
 
  ミケランジェロの「最後の審判」という絵の中に、皮だけの顔が描かれていて、それがミケランジェロの自画像だという話があるが、それは一種の愛嬌であって、「自己」を消すという本質に影響を与えるものではない。

  ドストエフスキーの小説は作家の経験を踏まえて書かれたとしても、それは小説としての脚色をほどこされて作家の「自己」は消されている。あるいは、現実を材料として調理された料理がフィクションとして姿を現す。

 ギリシア・ローマ時代から芸術は「作られるものだ」という考え方が受け継がれており、生身の人間が現実を描写しただけでは芸術作品にならないという考え方はある意味で定着しているはずだ。

 日本の場合も、源氏物語は、平安時代の宮廷の実情をベースとしながらも、ひとつの創作された和歌物語としてとらえることができる。
 詩の世界を見れば、たとえば谷川俊太郎の詩はもちろん生身の谷川俊太郎の思想や経験が表現されているにせよ、作品世界はフィクションとして提出されていると言えよう。
 「私小説」といわれるジャンルを見ても、すぐれた作品は、きちんと「自己」が消されている。

2.ではなぜ、「自己は消されなければならない」のだろう?
 私見だが、人間の感情の多面性に理由があると見ている。つまり、人間は純粋で親切で人道主義的であると同時に、意地悪で嫉妬深くて残酷でもあるということだ。
 芸術作品において「生身の自己」が顔を出したら、鑑賞する者は嫌悪感を感じざるをえない。「自己」が消えて、作中の登場人物が見えれば抵抗なく作品を受け入れることができる。

 なお、断っておきたいのは、作品は作者が生み出すものである以上、なんらかのかたちで、作者の考えや経験や表現スタイルと無縁ではありえない。作品のスタイルは残らざるを得ない。それは「個性」としてとらえることができる。芸術における個性は、作者の自己を離れて、いわば「芸術の神様」の領域に到達する。「生身の人間」を離れた芸術作品の中へ作者は消えうせ、作品だけが姿を現すのだ。