『文学における言葉の役割の再検証=詩を中心として』(その3)
7.谷川俊太郎詩集「トロムソコラージュ」に即して
これまで抽象論を展開してきたので、このへんで、具体的な作品をとりあげて論じてみたい。
やはり、詩は作品がすべてを語ると思うからだ。
ことしわたしが目にする機会があった詩集の中で最も印象に残っている、谷川俊太郎詩集「トロムソコラージュ」をとりあげてみたい。
この詩集には、次の作品が収められている。
・トロムソコラージュ
・問う男
・絵七日
・臨死船
・詩人の墓
「詩人の墓」へのエピタフ
・この織物
谷川にしてはめずらしく物語性に富んだ長編詩が並んでいる。
いずれも魅力的な作品だが、「絵七日」については、詩集に収められる前に、拙ブログに詳しい感想を書いたことがあるので、ここでは、タイトルポエムのトロムソコラージュをとりあげることとする。
トロムソとは、ノルウェー北部の都市名だそうだ。
2006年10月、谷川は、トロムソで開かれた日本特集の文学祭に参加したそうだ。その際、即興的に書いたのがこの作品だという。
あとがきには、「コラージュと名づけているように、この作は断片的な心象や観察のモザイクで、その土地で撮った写真もこの作のひとつの要素になっている。これを書いてから、少し長い詩を書くことを自分に課してみようと思い立って、ここに収めた何篇かを書いた」とある。
冒頭部分を引用してみよう。
私は立ち止まらないよ
私は水たまりの絶えない路地を歩いていく
五百年前に造られた長い回廊を
読んでいる本のページの上を
居眠りしている自分自身を歩いていくよ
太陽は陽気に照っている
または鉛色の雲のむこうに隠れている
またはこの星の反対側で働いている
または夕焼けに自己満足している
そして星は昼も夜も彼方にびっしりだ
詩の合間に14枚の写真が挿入されている。
その写真は、谷川自身がトロムソの自然や町の中で見かけた光景を写したものだそうだが、詩とうまくマッチしていて詩情を盛り上げるのに役立っている。
この詩は、紀行文のようなタッチで書かれており、一見わかりやすく見えるが、よく読むと、谷川の「洞察力」と「技巧」の粋がこらされていることがわかる。
全体を読めばそれがさらによく分かるのだが、この部分だけをみても、「太陽」の捉え方や表現の仕方に非凡なものがあると思う。
なにげない言葉や行にも技巧が凝らされている。
「私は立ち止まらないよ」という出だしも、光っていると思う。こういう言い方は意外と出てこないものだ。
谷川は、全編にわたって、ジャズを口ずさむような軽やかな足取りを示している。トロムソの街のようす、思いついたイメージや概念、平和や戦争への思い、人間や動物への愛情、宇宙や地球、日本と外国、日本語と外国語、言葉遊び、などが小気味よく語られる。
自由自在な感性は物事の本質を鋭く見抜き、言葉はそれを的確に表現する。読み手も、気分よく読めるが、軽やかな語りとリズムの裏に隠された重大な現実に思いが至ると心の真ん中が揺れる。核心を突いてくる詩の力がある。
8.詩集「トロムソコラージュ」から、「臨死船」
詩も文学のひとつの形式であり、言葉の芸術であるから、技巧が必要であることは言うまでもない。
詩の技巧、言葉による表現技術、修辞学、レトリック、テクニックなどさまざまな言い方はあるが、要は、詩を書くには技術が必要だという点では一致していると思う。
そういう技巧のひとつとして、「比喩」はきわめて重要である。
比喩と一口で言っても、仔細に見れば、さまざまなヴァリエーションがある。
① 単語レベルの比喩・・・りんごのようなほっぺ(直喩)
二十億光年の孤独 (暗喩)
② 行レベルでの比喩・・・ 人生は影法師
光る地面に竹が生え
③ 連レベルでの比喩・・・略
④ 詩全体としての比喩・・・略
詩全体としての比喩というのは、象徴に近いと思う。
なぜ比喩が重要な詩作の要素かと言えば、言葉が概念であるために、言葉の組み合わせによって具体的なイメージを与えることが必要になるからだと思う。抽象的な観念だけではひとの心を打たないので、どうしても具体的なイメージが必要になる。抽象と具体のほどよいバランスが求められる。
どのようにすればイメージが強化され、ポエジーが増幅し、読み手の感情を揺さぶるかということは、長い時間かけて探求されてきたので、歴史的な蓄積があることから、まずそれを参考にすることができる。しかし新たに詩を書く場合は、そこに新たなポエジーをを生み出し、あるいは付加することが求められる。
「喜怒哀楽」というような感情を増幅させることを目指して技巧は凝らされるわけだ。
たとえば、孤独感と二十億光年が結合すると、新鮮な感覚が生まれた。
光る地面に竹が生えると、うっくつした感情が鋭く表現された。
これから生み出される詩もまたそういうインパクトを求めているといえよう。
ここで、谷川俊太郎詩集「トロムソコラージュ」の中の「臨死船」をとりあげてみたい。
知らぬ間にあの世行きの連絡船に乗っている
けっこう混みあっている
年寄りが多いが若い者もいる
驚いたことにちらほら赤ん坊もいる
連れがいなくてひとりの者がほとんどだが
中にはおびえたように身を寄せ合った男女もいる
上の引用は、冒頭部分だが、 これぞまさしく「洞察力」のきわみだといえよう。これだけ正確に死についての実感をとらえた詩もめずらしい。
ここでは、いわゆる「比喩」は見えないような気がする。
むしろ、全体が大きな死生観を描いているように見える。先ほどの分類で言えば、④の類型にあてはまると思う。
谷川は、この詩集において、単語レベルや行レベルでの比喩をあまり使わずに、物語の登場人物や場面や会話やストーリーの展開によって、大きなポエジーを獲得することに成功したように見える。
比喩ということを通り越して、象徴とか、アレゴリーとか、そういう雰囲気の世界に到達したように見える。
言葉の技巧のなめらかさには舌をまく。
たくまざるユーモアには笑わせられるが、死を扱った詩であることに気がついて、深刻な気持ちに引き戻される。
そのあたりの運びは、まさに名人芸と言ってよい。
中ほどの連を引用してみよう。
おや どこからか声が聞えてきた
「おとうさん おとうさん」と言っている
どうやら泣いているようだ
聞き覚えのある声だと思ったら女房の声だった
なんだか妙に色っぽい
抱きたくなってきた もうカラダは無いはずなのに
夫婦愛の本質が浮かび上がって来るでは無いか!
最終連は、つぎの通りである。
見えない糸のような旋律が縫い合わせていくのが
この世とあの世というものだろうか
ここがどこなのかもう分からない
いつか痛みが薄れて寂しさだけが残っている
ここからどこへ行けるのか行けないのか
音楽を頼りに歩いて行くしかない
谷川の詩には、人生への深い洞察がある。だから、言葉も鋭くその核心を突く。おそらく身についた技巧が無意識に詩を書かせるのだろう。
もはや、比喩とか象徴とかリズムとか起承転結とか細かい技巧になどこだわらず、自由きままに言葉をつむいでいるような感じさえ受ける。
結局、詩は、最後には、表面的な技巧を超えて、人間存在に達するのかもしれない。