南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

「現代的」であるとはどういうことか?

 
   「 芸術において『現代的』であるとはどういうことか? 」


1. イタリアのルネサンスは人間の解放を目指した表現スタイルを追求する運動であったと思うが、そ の芸術的な流れは数百年にわたり続いてきたと思う。
  一言で言えば、人間らしい感動を超絶技巧によって表現しようとする姿勢である。
  音楽で言えば、バッハ、モーツアルト、ベートーベンからワーグナーあたりまで、みな美的な音楽を 追求し、創造してきた。
  美術で言えば、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロラファエロボッティチェッリからフェ ルメールセザンヌルノワールあたりまでが写実性を基本とした絵を描いた。
  文学も、シェークスピアトルストイドストエフスキーバルザックボードレールなど、基本的 にはリアリズムの極致である。

  ところが、20世紀に入る頃から、この流れは変化する。

  現代音楽といわれる、調性のない、ある種奇抜で奇妙な、神経を逆なでするような音楽が登場したの だ。たとえばバルトークなどの。
 美術の代表がピカソ
 文学は、ジョイスサルトルなど。

2. ヨーロッパでは「美学」という学問の伝統があり、美意識についてのと
 らえ方も確立されていたと思われる。たとえば、有名なラオコーン論争に見られるような、「美と醜」 の境目の論争、すなわち、ラオコーンが断末魔を迎える場面を描くとして、どの瞬間を描くべきかとい うような論争である。断末魔を描くのは醜であり、断末魔の寸前を描くのが美である、という主張に対 して賛否両論があったらしい。
  
  この美意識は20世紀に入って大きな変化がみられる。
  おそらく、古典的な調和的、協調的、写実的な美意識から、現代的な不調和的、独創的、抽象的、奇 抜な美意識へと移っていったといえるだろう。もちろん、現代においても、さまざまな表現スタイルが あり、単純にひとくくりすることは危険であるが、特徴的な現象を見ればそういうことだろうと思う。

3.日本においても、ヨーロッパ芸術から大きな影響を受けてきたので、以
 上のような流れを無視することはできない。
  音楽、美術、文学それぞれのジャンルについて、上述の「現代的」な流れは見て取れると思うが、特 に詩について述べるとすれば、今現在の日本の詩は、従来の抒情を否定して、新たなポエジーを求めて いるように見える。それはまだまだ試行錯誤段階であり、成功例があまり見られないので、具体的な説 明は困難なのだが、いずれこれが新しい日本の詩だといえるものが登場すると思う。

  この際、危惧があるとすれば、レトリックの軽視傾向である。感覚の新規性を追う余り、従来なら、 使われなかった言葉が頻繁に使われる。たとえば、死、死骸、難病、幽霊、墓、汚物、糞尿、吐しゃ  物、不快感、騒音、悪臭、誹謗中傷、非難、など。日本古来の詩歌には登場しなかった豚などの言葉も 何でも平等に使われる。言葉の間の詩的ヒエラルヒーがなくなってしまったように見える。すると、あ る詩を書くときにどういう言葉を使うべきかということについては、個々別々に判断するしかないとい うことになる。ある美意識によって取捨選択がなされなくなれば、個々ばらばらな尺度によって詩の言 葉は選ばれ並べられるだろう。突き詰めれば、詩は共通の美意識を失い、それぞれが蛸壺状態でそれぞ れの詩世界を作り出すということになる。

  ある詩人がいみじくも指摘したように、究極の美意識は「ホラー」ということになるだろう。美醜を 超えて人間が存在を感じ取れるのは、恐怖感かもしれない。いわゆる「実存主義」に近い発想のような 気がする。

4. わたし個人は、以上のような「現代的」な流れに完全には合流しきれて
 いない。どこかに抵抗を感じるのである。
  わたしは、芸術は、「洞察力と表現技術」に尽きると思っている。
  美醜を超えてしまったものに人間は本当にポエジーを見出せるだろうか?癒しや感動は古臭いと言い 切れるのか?
  テレビ広告などでも、常に新たなアイデアが求められるが、文学でも今までにない表現スタイルを求 めることは重要なことだろう。
  しかし、「表現技術」が、「美醜」を超えてしまえるのだろうか?
 「美」「醜」についての新しい見方はあってよいと思うが、「醜」が大手を振って横行する詩の世界は なんだか寒気がする。
  従来「醜」とされてきた言葉を詩語として使うに際しては、やはり、慎重な吟味が不可欠ではないか と思うのである。
  詩の実作者として、また愛読者として、どうしてもこの点が気にかかってしょうがないのである。