南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

「詩人の聲」

 平成28年4月28日(木) 自由が丘のカシュカシュダールで「詩人の聲」のプロジェクトの一環として、詩集『永遠の散歩者 A Permanent Stroller 』の朗読を行った。

 その経験から気づいたことを記しておきたい。


「1.日本人が英語で詩を書くということはいろいろな意味で難しい。英語力のレベルがある程度高くないと作品にならないし、英語で書く衝動も必要だし、英語の詩としての完成度も求められる。加えて、朗読する際は発音の正確さや英語らしいイントネーションも重要だ。だが、実際に読んでみると日本人的な発音やイントネーションになってしまう。ジェスチャーや表情の付け方に迷いが生じる。そういうさまざまな困難はあるもののチャレンジすることには意味があると思った


2.言葉は、人間の諸活動の重要な道具であると同時に文学作品を構築する素材でもある。おそらく意思疎通が言葉の最も重要な機能であるが、異なる言語の間では翻訳が不可欠である。翻訳はある意味で文化の総体を踏まえて行われる極めて知的な行為である。ほとんど不可能な異文化間の理解をある程度可能とする翻訳の役割は大切である。同時に常に不完全性による欲求不満に苛まれるリスクをはらんでいる。ひとりの人間が異なる言語を用いるとき異なる文化体系のはざまで精神的な不安定に襲われるおそれがあるのだ。だが、翻訳によって得られる効用は甚大なので、なんとかお茶を濁して精神のバランスを維持しながら翻訳行為を続けることが求められそれに応えようとする人々が居るのはありがたいことだ。

3.自分は翻訳の専門家ではないが、詩を通じてそういう困難さは実感している。特に詩においては意思疎通を超えたポエジーを伝える必要があるので別の難しさもある。わたしも、ささやかながら自分の出来る範囲でやれることをやりたいと思う。

4.村上春樹は、『風の歌を聴け』を書くときはじめに英語で書いてそれを和訳してみたと言っている。それによって新しい文体が見つかったそうだ。わたしも英語で詩を書いて和訳してみることがあるが、たしかに翻訳調の日本語になる。はじめから日本語で書く詩と違った文体になることにわれながら驚く。翻訳は難しいが、新しい世界を開いてくれる可能性もあるのだと思う。」