南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

人間はみな不完全(価Ⅱ=14)

 防衛省の不祥事を見ていると、やはり人間は誘惑に勝てないものだという思いを深くする。

 防衛省のトップになるというのはたいへんなことだ。きわめてすぐれた人材だと見てよい。

 それでも、あのような贈収賄事件の当事者にあるのだから、世の中はおそろしい。

 おそらくはじめは小さな誘惑だったのだろう。やがて、徐々に大きな誘惑へとステップアップしていった。感覚は麻痺した。気が付くと後戻りできないところまで来てしまった。

 いまごろ、なんでこんなおろかなことをしてしまったのか!と悔やんでいるに違いない。失うものが大きすぎる。

 一般に、ルールは守るために作られる。だが、完全に守られるルールもありえない。
かならず、ルール違反が生じる。その場合、どのような制裁を加えるか、どのように強制力を確保するかが重要な問題になる。

 賢い人は、違反した場合の制裁とメリットを量りにかけるかもしれない。少々の罰金なら払ってでも、ルール違反による利得の確保に努めようという発想だ。

 また、車のスピード違反に見られるように、10キロオーバーならとりしまらないだろうという不文律がある。

 ルールのあてはめには常に灰色部分がつきまとう。公平さを確保したいが、警察官などの人員には限りがある。全部の違反をつかまえきれない。すると、違反度が高い場合や、たまたま運の悪いものがつかまるということになる。

 国際的に見ても、国連憲章や国連決議に違反した国に対して、制裁をかける例がある。
 それが実効力をもつかどうかが鍵だが、今は、アメリカなど強国の個々の力による制裁が目立つ。

 罪刑法定主義という考え方がある。基本的にはいまの日本でもそうである。

 ところが、アメリカがテロとの戦いということで、外国を攻撃したとき、はたしてなにに基づき、なにに違反したことをもって攻撃理由になったのかが問われたことがある。
 戦争は国家間のものだったのに、急にテロ勢力を相手に戦争できるという大転換がなされたのだった。これはかなり「超法規的な」措置だったと思う。

 ことほど左様に、人間社会は、国内、国際を問わず、あいまいな部分がある。個人的な身近な人間関係でも、杓子定規にはいかない場合がいくらでもある。

 人間は100点じゃない。80点、50点、30点千差万別だろう。

 そういう不完全な人間が集まって作っているのが国家であり社会だ。

 だから、ルール作りもたいせつだが、同時に、その運用にあたっては、人間のもつ不完全さを十分に考慮に入れて、適切に実施されるように工夫する必要があると思う。

 不完全なのは罪ではない。不完全だからといって罪の意識を持たなくなることが罪であるとおもう。
不完全な人間同士が知恵を出しあい、協力し合って、住みよい社会を作っていければいいなと思う。