南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

表現と本音(価Ⅱ=13)

 建前と本音という言葉はよく使われる。

 また、思ったことや感じたことをそのまま表現せずに、言い換えたり、やわらかな言い方をしたり、遠まわしに言ったりするということは、生活の知恵としてしばしば見られるところである。

 筒井康隆星新一宮部みゆきなどのSF作家も、読心術や読唇術などあるいはそういう能力を持った超能力者をしばしば作品に登場させる。

 それだけ、人間は思ったことをそのままは表現しないということだ。

 先日、テレビで、星新一の原作らしいが、オウムを肩につけた人間が丁寧にしゃべるとそのオウムが本音をしゃべるというコントみたいなものが放映されていたが、まさにそのへんギャップをうまくとらえたものだと感心した。

 たとえば、セールスマンが、「おいそがしいところ恐れ入りますが、この製品はとても便利なのでぜいひお買い上げいただきたいと思います。」と言うと、
 オウムが、『あんた、暇そうだなあ。この製品は非常にいいものだから是非買ってくれ。』と言う。

 客が、「主人と相談しませんとはっきりしたことは申し上げられません。」と答えると、オウムが、
『こんなものいらないよ。早く帰れ。』と言う。

 なかなか辛らつだが、笑いを誘う。

 今回は、人間の言葉をそのまま受け取れない場合が多いということについて考えてみたい。

 それは、やはり、人間関係を円滑にやっていくための生活の知恵と言えるだろう。
 隣近所とか、職場とか、買い物とか旅行とか、役所とかさまざまな局面で、社交辞令や敬語や婉曲表現が求められる。

 では、本音と表現が限りなく近くなるのはどんな場合だろうか?

 やはり家族だろう。とりわけ、夫婦関係。

 恋人同士でもかなり親しくなれば同様だろう。

 親しき仲にも礼儀ありといわれるぐらいだから、それなりの配慮は求められる。

 親友とは、家族に次いで本音に近いことが言えるだろう。

 つまり、人間関係の濃度や深さや距離に応じて、言葉の丁寧さは比例的に変化する。

 関係が遠くなればなるほど、本音と表現がかけはなれていく。

 このように、頭の中にある「考え」や「感情」が具体的に発せられる「言葉」や「しぐさ」や「表情」と乖離があることを踏まえて、他者の言葉を解釈する必要があるわけである。

 たとえば、有名な「京都のおちゃづけ」も、京都人の冷たさと受け取るべきではなく、
京都人の表現方法と受け止めれば、腹も立たない。

 念のため説明を加えておけば、よその家を訪問した客は、原則として、『お茶漬けでも食べませんか?』と言われる前に、帰るのが礼儀だと言うことだが。

 ちなみに、詩や文学をやるものはこういうギャップに敏感なはずである。

 比喩とか婉曲表現とか象徴とかの表現技術が駆使されるわけである。

 あまり上手でない文学者は、そういう技術が十分身についてないと言えるだろう。

 文学者じゃなくても、そういう表現と本音のギャップを念頭においておくことは無駄ではないと思う。