南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

文学において『現代的』とはどういうことか?

 

    「文学において『現代的』とはどういうことか?」


1.文学における現代性について、考えてみたい。

 ここでいう「現代的」とは、感覚の現代性及び言語表現としての現代性という意味あいで用いている。時代の最先端である現在を基準座標として明確に意識すること、過去は現在を基準として測定しその時間差を意識した上でとらえること、言葉もまたそのような新旧の時間軸でとらえること、それが「現代的な姿勢」だと言ってよい。

 現実には、感覚と言葉は混然一体となっているが、考察の便宜上、感覚の現代性と言語表現の現代性に分けて考えたい。

 現在の世界をどのように捉えるかは、ある意味では、認識論的・存在論的なテーマであるが、ここでは、学問的なアプローチよりも、言語表現が時代錯誤という陥穽に陥りやすく自覚しづらいということを特にとりあげたい。

 理念型としての現代的な世界認識は、仮説としてあらわれる。また、社会全体の統一的な認識があるわけではなく、極端に言えば、個々ばらばらでありうるし、ある集団的なまとまりとしても多くのグループがありうる。
 認識は異なっても、現時点での情報をベースに最大限科学的なアプローチの結果として得られた世界認識というのが、とりあえずの「認識の現代性」と言ってよい。

 次に、理念型としての、現代的な言語表現とは、異なる世界認識であっても、それぞれを表現する言葉(単語、文章、詩歌や小説といった文学作品などの形式がありうる)が現代的であるかどうかという視点から判断される。  

 言葉の現代性は、個々の単語が現在から見てどのぐらい古く感じられるかという尺度で測られる。たとえば、「純情可憐」という言葉の古さは、おそらく数十年前ととらえてよいだろう。そして、同じ言葉も文脈によって新しさを獲得することがありうる。その時代考証を個々の文章ごとにしっかりと行ってみることにより、その文章の現代性あるいは現代からのずれが確認できるとともに、客観化の困難な意識の現代性をチェックする手ごろな材料ともなりうると思う。

 だれも、自分の認識が現代的か否かを明確に認識することはできないだろう。脳は自分のコントロールできないところで機能しているからだ。そこで、言語表現を通じて逆に自分の世界認識が明確に見えてくるということがある。古臭い言葉の選択は意識の古臭さを示している可能性がある。

2.たとえば、短歌や俳句は、日本文学の精華を示すものであることは言うまでも無い。
 万葉集古今和歌集新古今和歌集など秀歌は多い。源氏物語なども一種の和歌物語だ。また、芭蕉に代表される俳句もすぐれた文学的遺産だ。

  だが、現代社会で、短歌や俳句は過去と同じ意義を有しているだろうか?
 「短歌や俳句は現代的か?」という問いが突きつけられる。
 たしかに、今でも俳句人口100万人、短歌人口10万人とか言われ、活況を呈しているかに見える。だが、古語や歴史的仮名遣い、切れ字や季語など、その手法が「現代性」を持ち続けうるのかが問われる。
 
 私見によれば、ごくわずかな作品に現代性を認めうるが、果たしてそれらは短歌界あるいは俳句界においていかなる位置づけをなされているのか定かではない。
 また、ある時代感覚、たとえば、10年前、30年前、50年前、100年前、数百年前、千年前といったような、明確な歴史意識のもとで、感覚が使われ、言葉が選ばれるとしたら、それはそれで、論理的には問題ないが、なぜ、現在において、そのような過去の時間あるいは言葉を使うのかの必然性が問われると思う。
 この点は、にわかに結論がでるわけではないので、問題提起をしておくにとどめたい。

3.ではなぜ、「現代的」「現代性」にこだわるのかと言えば、歴史の最先端にいるという意識こそが、あらゆる情報や価値観をより科学的にとらえ、正確に分析することを可能にさせるのだと信じるからである。
 
 人間は偏見にまみれて生まれ育つ以上、完全に中立で客観的に事物をとらえることは困難であろう。それでも、最大限の努力により、可能な限り精神の自由を獲得し、洞察力を磨くことはできるはずだ。そのような真摯な取り組みで最先端の世界認識が得られることが、人間のあるべき姿だと考える。
 
 そのように考えた上で、言語表現をするとき、意識にふさわしい言葉が選ばれるはずだ。現代性を物差しとして、言葉が取捨選択され、組み合わされ、文学としての、新たな地平が示されるとき、はじめて、意識が文字として定着する。おそらく、推敲というプロセスを経て、作品は現代化を徹底され、意識も現代化を眼前に見る。

 そのようなフェーズがあってはじめて、時間の推移、つまり過去のどの時期が意識され、使われるのか、それに応じた言葉がいかに的確に使われるのかというヴァリエーションが可能になると論理的には考えられる。
 そして、否定されるべき認識や情緒や偏見については、明確に位置づけたうえで、言葉もまたレヴューされるべきである。過去のくびきに縛られる意識と言葉は否定されるべきであり、現代性を危うくする意識や言葉も排除されるべきである。過去は現代という時点からレヴューし、過去の言葉もまた現代の言葉との比較においてチェックすべきである。
 そのような手続きを踏むことにより、はじめて、過去をふくめた現在というものが明確に姿を現し、言葉もまた過去の言葉を踏まえた現在の言葉となりうると考えられる。
 少なくとも文学に携わろうとする者はそのような観点を忘れずに、文筆活動をすべきであろう。