南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

現代詩歌と古語

 詩は長く書いてきたせいか、言葉の使い方には、ある程度見当がつくような気がする。

 しかし、こと短歌や俳句になるととたんに自信がなくなる。

 ぼくは、「現代語を使って現代人の感情を表現したい」という目標があるからだ。

 短歌と俳句は、いずれも古語や古文と密接な関係があるので、完全な現代語だけでは書けないことがあるような気がする。

 しかし、始末に悪いことにぼくはそれに抵抗を感じるのである。

 俳句を例に取ると、ぼくは「や」とか「かな」とかは使いたくない。古語も使いたくない。

 季語も知らないものは使いたくない。ほとんど「夏」とか「秋」とかですましたい。

 実際に、俳句の雑誌や新聞の投稿欄を見てもほとんど感動しない。

 それで、自分で書いてみるのだが、どうやら、5-7-5という音韻の中におよそ俳句らしくないなにかが生み出されているのかもしれないという疑心暗鬼に襲われる。

 短歌も同様に現代語だけで押し通そうとすると、どこかにゆるみや滞りや断絶が生じる。流麗で情緒的な和歌の雰囲気とは無縁のごつごつしたなにものかが生まれるような気がするわけである。

具体例を引こう。

    夏草に 負けて息切れ 深呼吸

    夏草や つわものどもが 夢のあと

  上の二つの句を比べてほしい。

   上はぼくの作った句であり、下は言わずと知れた芭蕉の句である。

   「切れ字」という俳句にとって根幹をなす技術もぼくには余計なものでしかない。

   「夏草や」などという表現は現代の日本語にはないと思うので、使わないですましたいのである。

   わが句には、川柳みたいな感じもあるかもしれない。

ついでに短歌についても例をあげよう。

    あれこれの 理屈をつけて 女とは 会いたいものよ だれでも源氏

    見てもまた 逢ふ夜まれな 夢のうちに やがてまぎるる わが身ともがな

   上は、ぼくが作った短歌であり、下は、源氏物語(若紫の巻。光源氏から藤壺あて)に出てくるものである。

   下の歌は、恋歌らしい情緒にみちているのに対して、上の歌は理屈っぽくて余韻に乏しいというふうに見えるだろう。それもまた「現代感覚」ととらえることができるかどうかである。

  ほかにもいろいろ例を示すことはできるが、要するに、表現は時代を映す鏡であるのだから、言葉も可能な限りそのときに使われている現代語を優先して使うべきではないかということをいいたいわけである。

 すぐれた過去の詩歌を鑑賞するのはたいせつなことだが、現在において、新しく詩歌を作ろうという場合は、おのずと事情が違ってくると思われる。

 個人差があるのは当然だと思うが、「ピン」とこない作品は作りたくないというだけのことである。

 それでも、多くの俳句や短歌の愛好者から批難を浴びるかもしれないとは思う。

 それなら、是非ぼくが感じている疑問にどう対処したらいいのかご教示願いたいと思う。


 


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