南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

歴史的なアプローチ(価Ⅱ=30)

 前にも「歴史」について述べたことがあるが、終戦記念日にあたって、重ねて「歴史」をどうとらえるべきなということについて述べたい。

 ひとつ重要な視点は、法的な観点である。その当時の政策判断や実行された施策が適法に行われたかどうかと言う点である。

 たとえば、開戦の決定がどのような手続きによってなされたかどうかということである。

 適法な手続きにより宣戦布告がなされて結果的に敗戦となっても為政者は法的な責任は問われない。

 社会的な責任や道義的な責任はまた別問題だが。

 太平洋戦争について見れば、東京裁判という国際法廷で責任の所在が論議され、判決が下され、刑が執行された。

 そして、東京裁判の結果は、平和条約においてわが国が認めるところとなったので、法的には争えない結論となった。

 国内法で、戦争遂行した指導者たちが裁かれたことはなかったように思う。さまざまなかたちで、戦争責任についての議論はなされてきたにしても。


 今から見れば、不思議なことかもしれないが、当時としては法的には大きな問題はなかったといえるのかもしれない。

 そして、現時点において、日本国政府は、東京裁判について異を唱えることは出来ない。

 民間人や学者などが、そうした立場から、東京裁判については戦勝国による不公正な手続きだったと批判することとは別である。

 同様に、現時点から見て、戦前のわが国の法制度や軍事制度について問題があったと指摘することは許されてよい。政府は公的な立場から見解の発表には制約があるが、私的な部門や学問研究の場においては、出来るだけ、表現の自由が確保されるべきだ。

 このように、過去の歴史を振り返ることにより、当時は適法であったことでも現時点から見れば、改正すべきであったという指摘をすることは有意義である。なぜなら、現時点において、さまざまなルールや政策を吟味する上でそれは非常に参考になると思われるからである。

 「現在」というものは、常に見えにくいものだ。とすれば、実は今現在危機が静かに忍び寄っているかもしれないし、誤った方向に国が進んで行っているのかもしれない。

 たいせつなのは「現在」だ。現在の世界や日本の平和や安定に貢献することをせずになんの歴史認識があると言うのか?

 総理大臣や閣僚を批判するだけでなく、国民ひとりひとりがわが国のことを真剣に考え、自分なりの意見を持ち、必要に応じて発言し、選挙権を適切に行使することが求められる。

そして、企業や団体もまたそれぞれの立場からなにをなすべきかを考えるべきだと思う。

 きっと将来の日本人は、平成の日本を振り返って、忌憚のない批判をするに違いない。愚かな日本人ばかりだったなあ、などといわれないように現在の日本に生きるわれわれは全力を尽くす必要があるのだと思う。