南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

決定権(価値観の研究=その6)

さて、問いかけは続く。

きょうは、さまざまな優先順位の決定の重要性とそれに基づく選択の話の次のステップに移る前に、
だれが決定権をもっているかが重要な要素であることを取り上げたい。

個人的な事柄であれば、当該個人に決定権があることはいうまでもない。精神的な問題をかかえている者が補佐人を必要とするのは別問題として。

たとえば、総理大臣は、多くの決定権をもっている。
野党から、マスコミから、あるいは、多くの反対者から、批判がなされ、反対意見が述べられても、最後に決定するのは総理であるという案件がきわめてたくさんある。
早い話が、閣僚人事だ。だれを大臣にするかどうかは総理が決める。天皇の国事行為はそれを認証する役割といってよい。

閣議案件でも総理が反対すれば通らない。法律・予算・税制多くの重要な国政にかかわる案件は基本的には総理大臣のオーケーが必要である。

民主的なルールが憲法、法律によって決められている。過半数とか、3分の2、4分の3以上の多数とかがそれだ。

手続きは重要だ。決定のための手続きがはっきりしていないと賛成反対がわかれる現実においてなにごとも決まらなくなるから。

さて、話を詩に当てはめてみよう。

詩集に対してさまざまな賞が与えられる。
その場合、選考委員が何名か選ばれて、かれらが受賞者を決める。何百何千という読者のアンケートで決まるわけではない。それでもそういう手続きで選ぶことになっているので、結果に異を唱えようがない。もちろん、選考委員の選択に意見を述べたり、選考結果を批判するのは自由だが、結果にはなんの影響も与えない。

賞ごとに受賞者がばらついているのは、ある意味で当然だし、いいことだろう。いろいろな書き方があってよいし、評価がわかれてもふしぎはないからだ。

ひとつ、気になることがあるとしたら、特定の選者にはどうしても好みがあり、類似の詩作品を評価する傾向があることだ。その結果、芋ずるのように似たもの同士が詩人グループを形成し、権威をふるうようになることだ。しかし、人間社会にはつきものの現象なのでとやかく言ってもはじまらない。

おそらく、時間が解決するだろう。
今評価されても、直に忘れ去られる詩もあるだろうし、今あまり評価されていなくても何年かあるいは何十年か後に評価される詩もあるだろう。ひょっとして、百年後にはほとんどすべての詩が藻屑と消えているかもしれない。

ひるがえって、ある枠組の中では決定権を持っていても、その枠組みをとっぱらえば、だれにも決定権はない。いやより正確には、その時代時代の読者の感性や価値観や需要によって変わり行くものだろう。

永遠があってほしいが、それは困難だろう。
紫式部源氏物語清少納言枕草子万葉集古今集新古今集芭蕉の俳句など、日本文学にも、古典といわれる財産がある。とりあえず、いまはそういう評価がさだまっているが、千年後はわからない。

バッハ、モーツァルト、ベートーベンの偉大な音楽だって未来の評価はわからない。

個人としては、今現在の能力の限りを尽くして、すぐれた詩はなにかを追求することしかないだろう。歴史的な評価など個人にどうこうできることではないから。だが、普遍的な価値があると信じて、永遠の芸術的な価値を生み出そうとする真摯な姿勢なしには、一時的な傑作すら生み出すことはできないだろう。

多くの芸術家諸君!受賞できなくても気にしないでいいのではないか。
きみのなかにおいてはきみ自身が決定権を持っているのだ。
きみの詩が傑作だときみが評価できるかどうか、とりあえずはそれが問題だ。
その先は、現在そして将来の読者にゆだねよう!