南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

生命

自宅の近くの散歩道。約1時間で回れるコース。自分で考えてみたコースだ。車があまり通らなくて、自然にめぐまれていること。

きょうは暑いぐらいだった。目立つのはなんといってもつつじの花。赤、白、赤白の混合種。ちょっとした家の植え込みや道路沿いや緑地など、手軽に栽培できるのだろうか、いろいろな場所にずいぶんたくさん見られた。

それにしても、花が咲くというのはいのちを明確に感じさせてくれる。花にもいろいろな種類があることが目を喜ばせてくれる。生物種の多様性を維持しようとする取り組みがあるようだが、なんとなくその意味がわかるような気がする。最近、日本では、結婚しないひとや子供を生まない女性がふえていると言う。子供を生むことは命の営みの最たるものだ。できればいのちを引き継いでいってほしいが、強制できる筋合いのものではない。生まれることは決して歓びだけじゃないから。死ぬまでの苦労を考えれば、子供を作らないという選択もありうるだろう。本能のままに子供を作るという場合が多いだろうが、ひょっとすると、子供を生まないという選択の方が賢いのかもしれない。そうなると、人口は激減し、やがて国は滅びてしまうかもしれない。そういう選択は公式には推奨できるはずがない。

動物や植物には、いまのところ、避妊というような手段は意識されていないだろう。
自然の営み、特に動植物の命の営みは、人間にも大きな喜びを与えてくれる。
それはなぜなのかよくわからないが、散歩しながらそれらの息吹で自分はずいぶん救われるような気がする。

もし散歩コースに存在するのが、コンクリートや砂やプラスティックなど、無機物のみであったら、どんなに殺風景だろうか?おそらく、ロボットや人形や絵や映像がどんなに精巧に作られていたとしても、ひとのこころは癒されないのではないだろうか?

自然つまり海や山や空。水や空気や温度湿度。それらが動植物などの生物を生かすことで、人間の環境もまた生きることが可能となっているのだろう。

人間はどんなに賢い人でも、それらの命の営み抜きでは生き続けることはできないだろう。
ひとはみな自分をとりまく多くの命によって生かされているのではないだろうか?
そんなことを感じながら、きょうもいつもの散歩コースを歩いてきた。