南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

建前と本音(価値観の研究=その16)

 「価値観の体系」を構築しても、すべてを思うまま表現できるわけではないのが現実だ。

 言論の自由ほどたいせつな権利はないと思うが、言論によって、トラブルを引き起こす恐れがあるのも事実だ。

 たとえば、名誉毀損にあたりそうなことを書いたり言ったりすること。発表してみなければ確定的なことはわからない場合もあるだろう。

 宗教に対する批判や揶揄などもリスクが大きいと思われる。

 人種や民族や習慣の違いなど、デリケートな事柄についても、発言するときは慎重にする必要があるだろう。

 ときどき、勇気ある人物が、明確な批判や皮肉を述べて、抹殺の危機に瀕している例もある。

 政治家の発言が典型的だが、建前と本音というもがあることは明らかであろう。

 自民党の国会議員は、基本的には、同じ政策を共有している。

 安倍総理が、日米関係を基本として、外交、安全保障、経済政策等を進めていくというとき、

厳密には、アメリカへの批判的な要素がまったくないとは思っていないはずだ。しかし、そういうことを正直に述べることが得策ではないと思えば、そういう事柄には言及しないだろう。

 また、外交上の秘密事項もあるだろうから、言いようがない事柄もあるだろう。

 発言は精密に構築された価値観の体系に基づいてなされたとしても、すべてを発言することはむしろ稀有であろう。

 つまり、現実世界では、政治家だけではなく、経営者も、団体も、個人も、それぞれのおかれた環境や立場という制約の下で、利害得失や影響を考慮しながら、発言や行動がなされる。

 したがって、解説者や評論家があれこれ、コメントを添える余地も意義も生じるわけである。

 都合の悪いことが言われないことは多い。

 また、建前と本音がちがう場合も往々にしてある。

 「価値観の体系」が秘密裏に構築されても、それは、特定のひとたちの間の秘密事項として処理されることが多いと考えるべきだ。

 したがって、発言者は、複雑な状況を踏まえて発言するはずだ。

 「なぜそういう発言をしたのか?」とか「なぜそういう行動をしたのか?」を考えるとき、

 その背後にあるさまざまな事情や配慮を念頭に入れなければ正確な判断はできない。

 情報収集と分析能力を鍛えることによって、情報の持つ断片性や、操作性を克服することがすこしでも可能になると思う。

 情報化社会といわれるいまの世の中では、そうした情報処理能力がますます重要になっているのではなかろうか?