南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

誤解(価値観の研究=その45)

 価値観を持った同士が接するとき、おたがいの言葉や行動をどう理解し受け止めるか?は重要だ。

 真剣に伝えようとする場合でも、100%真意が伝わることはありえない。

 よく伝達ゲームというのがあるが、ひとりのメンバーが一枚の紙に書いてある内容を暗記して次のメンバーに口頭で伝えていくうちに、数人いるうちの最後のメンバーに伝わるころには、最初とはまったく違った内容になっているという例がしょっちゅう見られる。

 一生懸命伝えようとしてもその程度だ。
 ましてや、なんとなくコミュニケーションをとっているときには、真意は伝わりにくいと思ったほうがよい。

 理解には、不十分な理解、曲解、誤解、勘違いがなどがつきものである。
 表現能力や理解能力の影響も大きいだろう。
 社会はそういう理解と誤解の複雑な関数である。

 また、同じことでも、だれが言うかによっても、伝達力が異なる。親しいものが言うことと嫌いなものが言うことでは、受け止め方が異なるだろう。上下関係や利害関係や立場や状況によって、理解度は大きく違ってくる。

 発言や行動の前に、発言・行動の主体の信用度などがきわめて大きな方向性を与える。

 理解ということに潜むそのような複雑な方程式をよくふまえておかないと、「すぐれた価値観」を提示しても世間を説得できるとは限らない。

 そこに、読みや駆け引きの要素が入ってくる。

 時には、意図的に、誤った情報を投げかけたり、嘘をついたりもする。情報の混乱を狙うこともある。

 他人同士を、疑心暗鬼におとしいれようとする場合もありうる。

 人間は、さまざまな状況においてさまざまな駆け引きを使う。たとえ無意識であっても。それは生きる方便だ。

 したがって、「価値観」は、現実には、そのときどきの人間関係や状況でゆれ動き、変容を余儀なくされる。

 生きている人間や社会の発言や行動に密接にかかわる価値観は、同様に、そのときどきにおいて、とっさの対応を迫られる。

 価値観は生き物の側面を持つことを忘れてはならない。