南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

失言(価値観の研究=その44)

 価値観をめぐっては複雑な要素がからまりあい、また変化していくものであることを述べてきた。ここで、ちょっと横道にはいって、意思疎通の精度について触れておきたい。

 ひとがある価値観に基づいて発言し行動するときに、すべてを自覚し、正確にコントロールできているのだろうか?そんなことはありえないだろう。

 まちがってこそ人間。常に勘違いや間違いがつきものである。あるいは、表現能力の問題、理解能力の問題もある。

 ひとはお互いに誤解しあいながら、コミュニケーションをとっている。そういうものなのである。
 よくある政治家の「失言」もそういう類かもしれない。

 失言はそのひとの注意能力にかかわるが、知的な能力にもかかわるような気がする。

 信じられないような失言をする政治家がいる。それもくりかえす政治家がいる。
 そういうことがわかった時点で、そういう政治家はやめてもらったほうがいいだろう。

 その政治家の「価値観」の一部が明確化し、否定されるべきことも明らかになったわけである。

 そういう場合の、けじめのつけ方に、またひとつの「価値観」が問われる。本人はもとより、党首なり、総理大臣なりの判断力が問われる。

 概して、問題が起きたときの処理の仕方で、信頼できる価値観かどうかが見えてくる。

 「失言」はだれにでもあるが、信じられないような重大な失言は許されない。くりかえしも許されない。ましてや失言を失言を思えない場合は、弁解の余地がない。

 失言をするにしても、じょうずに危機管理をすることが求められる。