南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

科学と価値観(価値観の研究=その46)

 これまで、科学と科学以外のことがきちんと区別できることを前提に話をしてきた。

 しかし、ほんとうに科学と非科学を峻別することは可能なのだろうか?

 科学的とか客観的とかいうと、きわめて論理的・実証的で疑問の余地がないようにも思える。

 実際にそうだろうか?

 アインシュタインが敬虔なキリスト教徒だったという話もある。

 どんなに科学が進歩しても、宇宙や生命のなぞはとけそうもないのだろうか?

 宇宙のはじまりについては画期的な理論が提唱されている。宇宙の歴史や構造についても、驚くべき発見や理論展開がなされてきている。まさに天才的な発展といえるだろう。多くの天才の功績も大きい。

 だが、どうにもわからないことも膨大ななぞとして存在しているようにも思える。

 そもそも、なぜこの宇宙があるのか?

 空間と時間とはなにか?

 どうしてこんなに多くの動物や植物や物質が存在するのか?

 人間ひとつをとっても、なんでこんなに高機能の生物が生まれてきたのか?

 こうした宇宙や生命の設計図をかけるのは、超越した存在しかありえないのではないか?

 「神」ともいえる存在がなければ説明できないような気がする。しかし、それは証明するのがむずかしそうだ。

 神の概念は宗教と密接に結びついているが、ここでは、宗教とは別に、科学的なアプローチとしての「神」の問題が残されているということを指摘しておきたい。

 かりに、科学が、思想や信条や道徳観など科学以外の分野と明確に区別しきれないとしたら、話はややこしくなる。

 科学的な思考も、哲学的な思考と結びついているとしたら、科学もまた相対的な理論にすぎなくなるかもしれない。いわば、たしからしい理論として、「仮免」はもらえても、絶対の真理としては公認されないのだ。

 科学の発達、そして医学の発達。それはさまざまな難問に光を当ててはいるが、すべてに解答を与えているわけではない。

 ユークリッド空間と実際の宇宙空間とは違うらしい。次の理論も完全には現実を説明できないかもしれない。それでも、すこしづつは、真理が明らかにはされている。

 そのように、科学といえども、完全とは行かずに、どこかファジーな要素をはらみながら、相対性と絶対性をあわせもち、、さらには未解決の現実を膨大にかかえたまま、研究が続けられているのかもしれない。

 「科学」という言葉の持つ「魔性あるいは「陥穽」」に幻惑されないような注意が必要かもしれない。