南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

無宗教は可能か?(価Ⅱ=3)

 お盆のシーズンということもあって、テレビでは、仏教関係の特集番組がいくつか放映されている。

ゲストが、仏教や仏像への敬虔な思いを述べるのを聞くと、なるほどという気持ちを感じるとともに、そんなにすんなりと宗教心て持てるのだろうか?という疑問も湧いてくる。

 ブッダの教えや生涯のこと、その後の各地へのひろがりのこと、寺院や仏像や曼荼羅などの存在などを知るにつけ、人類には宗教は不可欠なのかという気もしてくる。キリスト教イスラム教もその他の宗教も実に長く強く世界のひとびとに影響力を持ち続けている。

 宗教は人類普遍の精神的な支えなのだろうか?

 美術も音楽も文学も、生活習慣も、さまざまな生活の局面において、宗教の影響は陰に陽に見られる。

 京都や奈良の伝統文化もひとことでいえば仏教文化といえるだろう。

 ミケランジェロもバッハも宗教と芸術が切り離せない。

 21世紀の今日、宗教に依存しない精神生活は不可能なのだろうか?

 無宗教と自分では思っていても、どこかでなにかを信じているのだろうか?かつて、イザヤ・ベンダサンが「日本教」とでもいうべき日本人の生活規範があるという指摘をしていたように。

 ぼくは、これまで、自然科学と社会科学というふたつのアプローチをしてきた。そして、ひょっとするとふたつは峻別困難かもしれないという指摘もしてきた。

 しかし、科学的な態度は捨てるべきではないという思いは強い。

 わかったこととわからないことを明確に区別することこそ、科学的なアプローチの基本だと思う。

 信教の自由は尊重すべきだが、信じない自由も尊重されてしかるべきだ。

 「悟りを開く」ということはどんなことなのだろうか?開けないのではないか?という見方もあると思う。

 神というものをどうとらえるか?人類にとって最も困難なテーマだと思う。

 多くの人は神を見出し信じるようになっている。しかし、少数かもしれないが、神を見出すことができず信じきれないひともいるだろう。

 冠婚葬祭がなんらかのかたちで宗教に関係付けられている現実を見ると、無宗教を徹底しようとすると日常生活にさえ支障をきたすかもしれない。

 だが、科学的な姿勢を維持しようとするとき、正義や善悪や道徳もまた相対的な価値観であることを
忘れてはならないのではないだろうか?

 絶対的な価値観は、自然科学においてしか成立しないような気がする。社会科学の領域における価値観は、人類の経験が生み出してきた価値観であって、最後まで絶対化することは困難ではないだろうか?

 だからといって、経験的な価値が低いと言うことではない。たとえば、「人を殺すな!」という教えは普遍的で説得力のある価値観だろう。だが、事情によっては、絶対ではないかもしれない。

 はたして、そういう相対的な価値観のままで、人間が正気を失わずに生きていけるかどうかはよくわからない。無意識に、なにか超越的な存在を信じて心のよりどころとしているのかもしれない。そのあたりは、まだ科学的に解明されていないような気がする。

 「ひとは無宗教なまま生きていけるか?」というのは深刻な問いだが、そういう問いかけをわすれるべきではないと思う。そこに人間の精神さらには人間存在そのものの真の恐怖も感じることになるかもしれないのだが・・・。