南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

南川優子の詩を読む(その1)

 南川優子の詩に出会ったのは、まだ最近のことだ。(敬称略、以下同じ。)
 
 清水鱗造が主宰している「灰皿町」というホームページに参加させてもらってから、灰皿町の住民の詩やエッセイや日記などを読むうちに、いたくぼくの心をとらえる詩に出会った。それが南川優子の詩である。

 南川優子のプロフィールについてはあまりよく知らない。彼女のホームページ(英語ではウェブサイトというらしいが。)「そふと」を見る限り、日本出身だが、今はご主人とともにイギリス在住らしい。
もちろん会ったことはない。

 「そふと」に発表される詩をなにげなく読むうちにいつのまにか詩を読む楽しみに浸る自分を見出していた。ぼくはそれほど多くの詩集や詩誌を読むわけではないが、インターネットなどで読める詩はできるだけ目を通すことにしている。
 だが、残念ながら、ぼくの心をひきつける詩には滅多にお目にかかれない。ぼくの読み方が悪いのかもしれないが、多くの詩は、テーマがぴんとこないこと、被害妄想的な書き方が多いこと、暗くてみじめで救いがないこと、思想やイデオロギーに偏りが見られること、表現技術が未熟なこと、などなどの理由により、ぼくには感動を与えてくれない。それでも時折少数ながら自分の心を打つ詩に出会うことがあると、喜びもひとしおである。

 南川の過去の業績もよく知らない。彼女の詩集も残念ながら読んだことがない。
 あくまでも、「そふと」に掲載されている詩作品を読んだだけである。

 ぼくがはじめに衝撃を受けた詩は「アイロン」という作品である。

 アイロンがけというひどく日常的なテーマをこれだけドラマティックに描き出せるなんてなんという力量だろう!とほとほと感心してしまった。

 実際に、作品に即して見てみたい。

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アイロン


浮きたいと思うと
身が重く 熱くなり
ますます沈んでしまうのであった
朝のニュースが終わると
ちぢれた布の上に
うつぶせになる
今日は ワイシャツ
ずっとこうして 動かずにいれば
焼き跡を残すこともできるが
尾から電気を 流し込まれると
前に進むしかなく
青い縦じまを 黙ってたどる


袖口を一周してから
肩に向かって徐行する間
体の下で 空間が潰れ
脇の下の湿った縫い目が
じゅっといううめきを最後に
口をつぐむ
浮いたかと思うと
まっぷたつに割れる胸に
ふたたび着地
ボタンを鳴らしながら
聴診器のように あてどなく滑る

ワイシャツは 身をひるがえし
うつぶせになるけれど
広い背中に どこから入っていいのか
わからず
どう、と馬乗りになって
横揺れに身もだえすると
青い縦じまは ハープの弦のように 切れ
この鉄の体は 落下する
じっと
カーペットにぶつかる瞬間を
待っていたら
この部屋に底はなく
静かな闇に 沈み続けるだけだった
縦じまが はじける音色だけが
遠くでぷつぷつ聞こえる
ワイシャツは 勝利のマラソンランナーのように
手を上げて
この身が沈むのと 同じ速さで
浮いていった

ナタリヤ・ゴンチャロバ「リネン」を見ながら

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以上、「アイロン」の全文を引用してみた。

 ぼくの印象では、この作品を境に南川優子の詩は飛躍的に魅力を増したと思う。

 その鍵は、やはりしっかりしたテーマの選択とイメージの展開とレトリックの巧みさだと思う。

 アイロンをかけるひとの姿は見えないが、透明人間のようにアイロンをあやつる気配はしっかりと伝わってくる。

 シャツがまるで操り人形のようにさまざまな姿勢をとるところもユーモラスでほほえましい。

 アイロンがけにスポーツ感覚を見出し、ストライプにハープの音色を聴き、シャツのそでにマラソンランナーのしぐさを見て取る、なんて並みの想像力じゃない。

 終わり方も宇宙遊泳のようなふしぎな重力作用を感じさせてたくみだ。

 全体に、おしゃれで上品で抑制が効いている。

 傑作と言ってよいのではないだろうか。

 とりあえず、「アイロン」について述べてみた。

 引き続き、ぼくが特に気にっている南川優子の詩を数篇とりあげていきたいと思う。

 ひとりでも多くの方に南川優子の詩を読んでもらいたいと思う。

 南川優子のホームページ「そふと」のURLは次のとおりです。

 http://non.mine.nu:6789/~adams/soft/