夏目漱石の「文学論」を見ていたら、「連想の作用にて醜を化して美となすの表出法」という項が目に付いた。
漱石といえば、小説はあまりにも有名だが、「文学論」を読んだことがある者はすくないのではないだろうか?
天下の漱石がどんなことを言っていたのか、ざっとながめてみるのも悪くはないだろうと思って、斜め読みをしてみた。
おおまかな印象としては、
1.「序」がいかにも漱石らしく、ロンドン留学の経緯から、文学論を書こうとした経緯、帰国してからの諸事情、小説を書き始めたので「文学論」をまとめる暇がなくなり、弟子のひとりに原稿の整理を託したことなどが率直に述べられている。序だけ読んでもおもしろい。
2.文庫本で、500ページに及ぶ力作で、漱石がこれを自分の学術的な研究の成果として心血を注いでまとめようとした情熱と覚悟が窺われる。
3.それにもかかわらず、漱石の関心は小説に移ってしまったので、「文学論」のほうは完成度が低いままとなってしまったことに、悔いを残しつつ、内容にはそれなりの自信をもっていたらしいことが窺われる。
4.本書は、
第一編 文学的内容の分類
第二編 文学的内容の数量的変化
第三編 文学的内容の特質
第四編 文学的内容の相互関係
第五編 集合的F
以上の、5編から成っている。
特に、最初に、
(F+f)という記号的な用語がおもしろい。
Fとは、焦点的印象又は観念
fとは、これに付随する情緒
を意味する。
そして、文学的内容は、(F+f)というかたちにおいて成立と言う。
そこからはじまって、
・文学的な内容がどんな構成要素をもつか、
・文学と科学のちがいはなにか、
・文学的な内容を表現するためのさまざまな技巧の分析
・ある時代の集合意識の変化と暗示の役割
といった点について、主として、英文学の代表的な詩文の引用をもとに詳述される。
くどいと感じられるほどに、くりかえしかつ突っ込んだ分析がなされる。
文学論とはいえ、詩論といえるような趣を呈している。シェークスピア、シェリー、キーツなどの詩文 から膨大な引用がなされている。
5.こうした徹底した文学論の学術研究は、小説家としての漱石にとって大いに役立つものであったと推測される。
6.詩のレトリックを掘り下げたという点でも、特筆できる内容を持っているが、ぼくが特にこだわりをもって読んだのは、
「第二編 第三章 fに伴う幻惑」である。関係部分を下記に引用してみよう。
「(Ⅰ)感覚的材料 (一)連想の作用にて醜を化して美となすの表出法。
この場合にありては物体そのものは実際経験において不愉快なるも、連想により結びつけられたる観念とともに表出する時、その観念若し美なれば、吾人がこれに対して生ずるfもまた美となるものなり。
例えば、
”He read ,how Arius to his friend complain'd,
A fatal Tree was growing in his land,
On which three wives successively had twin'd
A sliding noose ,and waver'd in the wind."
-Pope,The Wife of Bath,11.393-6.
のごとし。この意味はもとより三人の妻女つづきて樹上に縊死せりと云うにありて、実に不愉快極まる事件なり。然れどもこの詩につつまれたるこの事実はその不快の念を償うに足るのみならず、なんとなく美しき感じさえ生ずるを注意すべし。これ直接に縊ると云う字を点出せずして、sliding nooseをtwineするという比較的間接にして且つ滑らかな感じを連想さしむる言語を用いたると、waver'd in the wind なる藤の花、かづらなどの風裏に揺曳する様を連想せしむる字句を使いたるがため、意味は首を縊りたるなりと合点せらるるにも関せず、首縊りに関する醜悪なる光景は眼前に浮かび来たらぬなり。Popeの詩の原文たるCanterbury Tales において Chaucerは
"Than tolde he me,how on oon Latumius
Compleyned to his felawe Arrius,
That in his gardin growed swich a tree,
On which ,he seyde ,how that his wyves three
Hanged hem-self for herte despitous."
-Chaucer,The wif of Bathe,11.757-61.
と云えり。そのいかに露骨なるかを見よ。大胆にもhanged hem-selfと云い放ちたるに過ぎず。余は決してhangなる文字を文学に容るべからずと主張するものにあらず。されどもその表出の明瞭直接なるだけfの不快を減少すること少なし。
(二)事物そのものは醜なれども、その描き方いかにも巧妙にして思わずその躍如たる様子にうたるる場合。Spenser がその大作 Faerie Queene において Duessa(虚偽)の醜形を極力写し出せるが如し。(以下略)」
このように、美と醜の関係について述べている。
(なお、一部現代仮名遣いに変えてあることをおことわりしておきたい。)
醜なるものも表現の仕方で美になると言っているのであろう。
最近、ぼくが指摘していることとほぼ同旨のことを100年前に漱石が言っていたのかと思うとなんだかうれしくなった。
7.漱石の「文学論」は、正直、読みやすくはない。構成がすっきりしていないところとか、用語が現在とは違っているものが多くみられることなど欠点もないわけではない。しかし、そうした欠点を補って余りある深くて広くて鋭い文学的な探究がなされていると思う。さすがは漱石だと思わせる質量を持った名著だといってよいと思う。
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