南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

夏目漱石「文学論」に見る漱石の「決断力」

【 夏目漱石「文学論」の「序」に見る決断力 】


 夏目漱石の「文学論」の「序」は、漱石の率直な息遣いがうかがえて実におもしろい。

 いくつかのポイントを列挙してみよう。

1. 明治33年、第五高等学校の教授時代に、希望したわけではないのに、校長と教頭の文部省への推薦により、英国留学することになった。

2. 研究の題目が「英文学」じゃなく「英語」だったので、文部省の上田万年専門学務局長を訪ねて、その趣旨を尋ねたところ、「別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず」というので、ある程度弾力的にやれることを確認している。漱石の律儀さがうかがえる。

3. 英国に行ってから、ケンブリッジに行ってみたが、漱石が受け取る学費ではとてもまかなえないような裕福な学生がジェントルマンの教育を受ける場だと知って、断念し、結局ロンドンに居を定めた。

4. 大学の聴講は3,4ヶ月でやめた。予期した興味も知識も得られなかったからだという。

5. いろいろな質問をするための個人教授のほうへは約1年通った。

6. この間、英文学に関する書籍を手当たり次第に読破した。

7. しかし、書籍の数は膨大で読みつくせない。また、学力もこれ以上伸びそうもない。そこで、漱石は、「心理的に文学はいかなる必要があってこの世に生まれ、発達し、頽廃するかを極めん。社会的に文学はいかなる必要があって、存在し、隆興し、衰滅するかを究めん」と誓った。

8. ここに、漱石は、帰国後十年計画で「文学論」をまとめようと決心し、猛勉強を開始した。

9. 帰国後、漱石は東大で英文学教授の職に就いた。そこで講義した原稿もたまったが、いろいろ事情があって書き直しもできずそのままにしてあった。

10、十年計画のうちまだ二年分しかできていない未定稿だけれど、書肆の求めに応じて出版することにしたが、自分でまとめることができない事情があり、友人の中川芳太郎氏にまかせた。

11.ロンドンの二年間は不愉快だった。帰国後の三年半も不愉快だった。そんな中でこういう書物を出版できたのは満足だ。

12.英国人は、漱石のことを「神経衰弱」と言い、ある日本人は「狂気」だという書を本国に送った。
 しかし、その「神経衰弱」と「狂気」のおかげで、「吾輩は猫である」などの創作が可能になったので、神経衰弱と狂気に深く感謝する。

13.漱石は、神経衰弱と狂気によって否応なく創作のほうへ向かわされるので、「文学論」のような学理的閑文字を弄する余裕がないので、これを唯一の紀念としたい。

 ―――――

 「文学論」の序には、ざっと以上のようなことが書かれている。

 おもしろい言い回しが随所に見られ、「吾輩は猫である」に通じる発想があらわれていると思うが、特に、ぼくが注目したのは、漱石の「決断力」である。十年計画を立てた「文学論」だったが、小説のほうが書きたいと思えば、あっさりと文学論を途中で投げ出してしまった。友人にまかせきりで。「未定稿」であることを自覚していながら、そのまま出版してしまった。おそらく優先順位というものがあったからだろう。限られた人間の命の中で、時間も限られている。

 これと類似の決断は、ロンドン時代に、英語の書物を読むだけの勉強を投げ出し、「文学論」をまとめようと決意したときにも見られると思う。
大学も学ぶものがないと思えば途中で行かなくなったし、個人教授を受けるのも一年でやめてしまった。

 しばしば言われるように、下宿にこもったり、公園や図書館でひたすら本を読み、メモをとる、神経衰弱の狂人の姿が夏目漱石像として定着したのだろう。

 しかし、「文学論」の序を読む限り、このロンドンの二年間こそその後の漱石の不朽の傑作小説として結実したものが養われたと見ることもできよう。

 夏目漱石、やはりその知性はすぐれて高く、文学への情熱は業火のごときすさまじいいものがあったのだろう。今の言葉で言えば、「小説家の品格」をとことん感じさせてくれる偉大な存在だったといってよいと思う。