南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

情報の偏り(価Ⅱ=28)

 情報化社会といわれるように、最近、われわれの周りには膨大な情報があふれている。
 新聞やテレビやラジオ。雑誌や単行本や文庫。インターネット。CDやDVD。屋外広告や交通広告。映画、演劇、コンサート。デモ行進。立会い演説。口コミ。など。

 できるだけ多くの情報を集めて利用しようとする態度はたいせつだろう。
 だが、その際に非常にたいせつなことがあることを忘れてはならないと思う。

 つまり、情報は、自然にまかせておけば、必ず偏りがあるということだ。バイアスがつきものだ。

 たとえば、新聞やテレビのニュースが一般的には多くのひとにとって身近で主たる情報源だと思うが、ニュースというものは、本来、異常な事件や事故を優先してとりあげる性質がある。昔から言われているように、「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛めばニュースになるのである。」

 すると、漫然とテレビや新聞を見ていれば、ひとは、現実以上に悲惨で危険で薄情な世界に生きているという意識を持つこととなる。凶悪犯罪ばかり見せられれば、世の中には、犯罪者ばかりいて、毎日あちこちで殺人事件が起きているような気がしてくるはずである。

 サブリミナル(潜在意識)効果を活用した広告や世論操作や犯罪がよく話題になることがあるが、まさにこれなども、無意識にある情報に誘導される好例と言えよう。

 では、どうしたら、そのような負の圧力に屈することなく、客観的で中立的な情報の収集や分析ができるかといえば、ニュース性はないが、明るくて楽しい話題をたくさん集めたり、友人知人などと明るい話題を交換したりすることにより、世の中全体の現状把握に努めるという方法があるだろう。

 たとえば、殺人事件は年間何件起きているかとか、一日になおしたら何件かとか統計的なアプローチも有力かもしれない。アンケート調査結果なども参考になるかもしれない。

 なぜ情報の偏りが怖いかというと、そのことにより、現実認識を誤り、判断を誤り、結果として、国民全体の不幸につながるおそれがあるからである。場合によれば、世界のひとびとへも悪影響を及ぼすおそれもあるし。

 そこで、できるだけ多くのひとびとが、意識的に情報の収集、処理をすることを提案したい。

 暗いニュースもあるが、明るいニュースもあるはずだ。報道されないからといって、生きる喜びを感じさせくれるニュースもないわけではないだろう。

 もちろん、暗いニュースから目をそむけることを推奨するつもりはない。通り魔殺人事件などについては、原因究明を徹底して行って再発防止策を講ずべきであることは言うまでもない。

 しかし、同時に、あまりにもひとびとの危機感をあおることは、社会安定上好ましくないことも否めないと思う。夢も希望もない社会はだれにとっても生きる意味に乏しいだろうから。

 そのへんのバランスをうまくとっていくことが望ましい態度ではないだろうか?