南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

人物の評価(価Ⅱ=33)

 人物の評価はきわめてむずかしい。

 人物にもいろいろある。

 ① 身近な人物。家族。友人。知人。親戚。同級生。同僚。隣近所。基本的には顔見知り。

 ② テレビや新聞では知っているが、会ったことはない人物。

 ③ 同時代人だが、直接の接点はない人物。

 ④ 過去の人物。写真や資料が残っている人物。なんら資料が残っていない人物。

 ⑤ 架空の人物。

 
 ざっとこういう分類ができる。

 ①のような人物なら、かなり正確に人物像がとらえられると思いがちだが、実際はそうでもない。
  自分の親が人を殺すなどとは想像しにくいし、誠実そうな友人が詐欺を働いたり、たくましそうな男が病気に苦しんだりする。すべての情報が入手されることはありえないし、仮に全情報があっても正確な判断はむずかしい。

 ②のような例はどうだろうか?たとえば、小泉元首相がどんな人物だったかということでさえ、意見は分かれる。ことほど左様に正確な評価は困難であり、主観的な評価がまぬかれない以上は人物評もまた千差万別になりやすい。

 それでも、できるだけ客観的な評価をしようという努力は重要である。そこに、ひとつの歴史観や価値観が反映するからだ。

 ③のような場合はどうか?なにか接点ができれば、コミュニケーションをとって、理解することができるだろうが、ブログなどを読むだけでは、なかなか人物像はとらえがたいと思う。

 ④のような場合はどうか?

  これも、資料の残り具合によるだろう。そして、一般的には、遠い過去になれば人物像も描きにくくなり、評価もむずかしくなるだろう。

 たとえば、聖徳太子徳川家康よりも資料が乏しいだろう。徳川家康の写真や肉声は残ってないだろう。明治時代になれば、映像や音声が残っているだろう。

 歴史をふりかえるとき、人物の評価は重要な要素である。

 ある人物たとえば、織田信長の人物像をどうとらえ、どう評価するかはむずかしい。正解や結論があるわけでもない。歴史の評価もそうだ。単純には行かない。

 しかし、歴史に学んで過ちを繰り返さないためには、人物を評価し、その功績を評価することがきわめてたいせつである。

 人物の評価をシステマティックに行うための学問が開発されてもいいだろう。

 そして、歴史の科学的な評価手法も確立することが望まれる。