南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

「価値観の創造」(「価値観の研究」第三部(価Ⅲ=その1))

 
 
「価値観の創造」


 ひさしぶりに、「価値観の研究」を再開する。第三部のはじまりである。

 すでに第一部で、体系的な整理をし、第二部で、個別論による補足をおこなったところであるので、第三部では、論じ忘れたことや思いついたことを少しずつ書いていきたい。ゆっくりしたペースとなるだろうが。

 はじめに、「価値観の創造」について述べたい。

 すでに「人間には生きる目的などないかもしれない」ということについては取り上げたが、では、どうやって生きていったらいいのか、ということに触れたい。

 実は、どんなに賢い人間でも、絶対的な真理や生きる意味を示すことはできない。

 科学的な事実や理論なら、客観的なアプロ-チが可能だが、人間が生きる意味などは客観的に説明しようがない。

 ただ、動物のように生まれて死ぬ。自然のままに生きて寿命がくれば死ぬ。結婚して子供をつくるかもしれない。意味などわからないが、本能や行きがかり上、なにかの痕跡が残る。

 あらゆる価値観は創造されたものだ。法律も、ルールも、主義主張も、道徳も、宗教も、幸福感も、仮のものとして生み出されてきたものだ。歴史の積み重ねの中で、いつとはなしに、絶対的な価値観であるかと思われ、そうひとびとが信じてしまったということだ。あるいは、ある社会で生きていくためにやむをえず受け入れているものだ。

 現在は、社会に奉仕するとか平和をたいせつにする、とかいうことは当然推奨されるべきことだと考えられている。しかし、世界に利己的な人間ばかりいれば推奨されないだろうし、戦争で利益をあげる人間ばかりだったら、平和など歓迎しないだろう。

 自由・平等・博愛とか、基本的人権とか、結婚制度とか、権力構造とか、商取引とか、契約関係とか、
人間の生活のさまざまな局面で登場する理念や制度や慣行は、便宜的に生み出されてきたのではないだろうか?人間の本質的な要素によって必然的にそのような制度が生まれたとは考えにくい。

 かつて述べたように、価値観は複数存在する。それらは、常にレヴューされる運命にある。複数の価値観は常に競争する。勝ったり負けたりしながら、価値観は変化し、交代する。永遠に、なにか絶対的な価値観へと収束されることはないだろう。人間が存在し、社会がある限り、変化しつづけるのが価値観だと思う。

 価値観は、常に創造され、提示され、競争する。民主主義とか資本主義とかも、歴史のある時点で有効とされたシステムだといえる。

 価値観は与えられるものだと考えるひとびとが多いかもしれないが、実は、一定のひとびとが切磋琢磨して生み出しているいるものだと考えたほうがよい。

 人間は、もっともらしく、正義や道義や説くが、あらゆるものは仮のものであり、たまたま採用されたに過ぎない。それでも、そういうシステムの中で、否応なくそれに縛られて生きていくしかない人間がほとんどであるという事実も否定しようがない。因果なものだということを忘れてはいけない。

 しかし、だからと言って、絶望や無軌道を勧めるものではない。人類の知恵は創造され、相対的にすぐれた価値観であるというものは存在するのであるから、そういう価値観を的確に選択し、修正を加えていくことはできるのだから。