南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

「脳が脳を考える?」(価値観の研究第三部=その2)(価Ⅲ=2)

   

       『脳が脳を考える?』 (価値観の研究第三部=その2)(価Ⅲ=2)



 脳科学が目覚しい発展を遂げているようだ。宇宙のことも素粒子のことも遺伝子のこともこの百年ほどの間に人類史上かつてなかったほどに長足の進歩をとげつつあると言えるだろう。

 わたしは科学者ではなく、それらの進展になんら貢献できてはいないが、素人でもよくわかる月刊誌「NEWTON」などで最新の情報に接することは大きな喜びだ。

 宇宙の成り立ちはかなりわかってきたようにも見えるが、まだまだわかっていないことも多いようだ。たとえば、「無」というものについては理論的に解明しきれていないらしいし、宇宙の構造が何次元であるのかもはっきりわかっていないらしいし、素粒子が「ひも」のようなかたちであるという説が提唱されたり、重力などの力の働きも「場」としてとらえようとするアプローチがあるようだし、極微の世界においては相対性理論の適用は不可能らしいし、素粒子の時間と位置を確定することが困難だという理論(不確定性理論とかいうらしい)もあり、曖昧模糊とした部分が数多く残されているという。

 遺伝子の仕組みもまだまだ解明され尽くしてはいないようだし、分子生物学の研究成果の医療への適用も徐々に行われているに過ぎないらしい。脳の仕組みもまた、研究の端緒についたばかりだと考えたほうが的確かもしれない。

 常々思うのは、どんなに厳密な理論を展開しようとしても、脳の認識や理解の構造が可能な範囲でしか考えることはできないのではないかということだ。つまり、脳が本来的に避けようとする認識や論理あるいは認識や理解ができない事実や現象というものがあれば、どんなにあがいても到達できない領域だという気がする。

 人間の脳がわかる範囲で研究は進めるしかないと思うが、「時間」「空間」「次元」「論理」「無」「宇宙」「生成」「消滅」「素粒子」「生命」「遺伝子」「DNA」「量子力学」「場」「エネルギー」「不確定性」など五感を通しては到底理解できない概念も多いような気がする。
 数式の世界でしか議論できない世界については、(たとえば、素粒子が波と粒子の両方の性質を持つ、などと言われても実感はできないと思う。理論的にはそうだと信頼できる科学者が言うから信じるという者がほとんどだろう。)

 この宇宙には、人間には先天的に理解できない認識や構造があると考えることには実際的な意味はないかもしれないが、そのような可能性を念頭においておくことは重要なことではないだろうか?

 宇宙が不可知だからと言って、ただちに「神」「「超越者」「絶対者」という論理を超えた存在に依拠することなく、地道に研究を進めるべきだと思われる。おそらく、宇宙や生命のあまりの複雑さや精巧さを眼前にすれば、だれでも「人間を超えた存在」を信じたくなるだろう。そこをじっと耐えて、知りえた知識や経験を増やしていこうとする姿勢がたいせつなのだと思う。

 さらに、こうしたアプローチは科学の分野だけでなく、社会においても文学といった領域においても、不可避とならざるをえないと思う。