『 《ひとはだれも死をまぬかれない》 という認識 』(価Ⅱ=44)
『 《 ひとはだれも死をまぬかれない 》 という認識 》
(価値観の研究第二部 その44)
1. 人間はだれも「生まれる」のであって、そこには選択権はない。あとは、死ぬまでどのように生きるかが残されているだけだ。
生きることが耐えられなくなれば、自らこの世に別れを告げる選択もあるが、多くのひとびとは死にたくないという思いが強く、病気になってもなんとか生き延びたいと願うように見える。実際、わたしにしたところで、できれば長生きしたいと望んでいるのが正直なところだ。
しかし、いつかは死ななければならないことを人間は知らされる。動物はどんな意識や認識をもっているのかよくは知らないが、人間のように明確に死を認識し、死をおそれ、しかし、最後にはそれから逃げられないという恐怖感を明確に持つことはないように見える。
動物も、屠場で、殺されることを察知してじたばたすることはあるようだが。
近年、DNAや遺伝子の分析が進み、脳や内臓の機能など、細胞レベルでの研究成果によって従来わからなかったことが革命的な飛躍を遂げて明らかになっているといえよう。
空腹を感じて食欲を感じて食物を食べる。排泄する。栄養のバランスや運動や精神的な安定が健康に重要なことも指摘されている。医学の進歩で、病気の予防や早期発見、早期治療が可能になり、平均寿命も大きく伸びている。
しかし、まだまだわかっていないことも多いといわざるをえない。
生命の神秘がそう簡単に解明されるはずはないだろう。身体の機能もさることながら、やはり、精神作用については、まだまだ初歩的な段階にあるといえないだろか?
そもそも、動物的な本能に基づく活動以外の、人間の精神的な活動というのは、なにに基づいて行われるのだろうか?
遺伝子のなかに、どんな行動をとるべきかという指令装置が組み込まれているのか?
「なにをすべきか」とか、「なにに価値を見出すか」というような精神作用は一体「なにによって決定されるのか?」あるいは「絶望して死を選ぶ」というようなプロセスはどうなっているのだろう?これから長い時間をかけて徐々に明らかにされるだろう。
2. では、現時点では、われわれはどう考えたらよいのか?
絶対的な処方箋はないとしかいえないだろう。
このことについての価値観は相対的なものに過ぎず、「ひとりの人間の一回限りの生」という絶対性につりあう「絶対的な価値観」は確立されていないというべきだろう。
試みに、ひとつの生きることへの価値観を挙げてみよう。
① 「ひとはだれも死を免れない」ことを認識して、死ぬまでは悔いのない人生を送る。
② どうせ死んでしまうにせよ、生きている間には、やらなければならないことややりた
いことがある。それをひとつひとつ片付ける。
③ 先人が残した事物や思想や文化を基礎に自分なりに取捨選択する。
④ 信頼できそうな考え方や人物を見出し、それらを尊重して、自分の人生に生かす。
⑤ 自分の経験から、喜びや楽しみの体系を作ってみる。「好きな人間、好きな食べ物、ファッショ ン、住まい、仕事、趣味、芸術、芸能、スポーツ、娯楽、旅行、お笑い、映画・演劇、歴史、戦争と平 和、地理、政治、経済、金融、科学技術、医学、産業、雇用、外交その他さまざまな分野についての自 分なりのとらえ方、関心度などなど」を整理しておくことは有益だと思う。
たとえば、ちょっと欝っぽくなったときに、自分なりの対処法がわかっていると楽だろう。ひとつの例を挙げれば、こんなのがある。
① 十分寝る。
② 好きな音楽を聴く。
③ 散歩する。
④ 軽くワインを飲む。
⑤ お笑い番組を見る。
⑥ 親しいひとと話をする。
⑦ 鼻歌を歌う。
こういう便法もひとそれぞれだろうから、自分なりのあつらえのやりかたをもっていると便利だろう。
そして、自分だけでは処理しきれないと感じた場合は、早めに、精神科の医師に相談することが得策かと思われる。
医学が進んだように見える現代でも、まだまだ手探りの状態が続いていると見たほうが正確だと思う。生きることと死ぬことのはざまで不安定な人生をいき続けるすべての人間のために、「暫定的な価値観」であっても、すこしでも生きることを前向きにとらえさせてくれる「価値観の体系」を構築することはたいせつだと思う。とりあえず、ちいさな、リストを作ってみることからはじめると手軽ではないかというのがわが個人的な経験から出てきたアイデアであるのだが・・・。
卓越した精神科や脳科学の専門家もおられるので、そういう方々からアドバイスが頂戴できたらと切に願うものである。