南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

「 生きることへの反転 』(価Ⅲ=26)

 

      『 生きることへの反転 』

                                価値観の研究第三部その26


1.死というものを見つめても悟りが開けるとは限らない。そこで、死を突き詰めることを一時やめるという選択もある。となれば、日常のわずらいへと視点は帰って行き、いかに生きるべきかというこれまた答えの見つけにくい問に直面する。

2.「生きる意味はなにか?」とか「生きる目的はなにか?」とか「生きる喜びとはなにか?」とかいう問いについては、すでに他の項目として取り上げたことがあるが、死を考えた視点から転じて生を見直すという視点は新しい視点だと言えるかもしれない。

3.命に係わる病を経験したひとびとの手記などを読むと、生きていることのかけがえのなさを感じて残された時間をたいせつに生きたい、というものが目立つ。もちろん、絶望して、生きていてもしようがない、と感じながら生き続けている人や、苦悩や錯乱の中で日々を送る人や、植物状態になってしまった人など、前向きの捉え方をする人ばかりではないだろう。
 
4.死を身近なものと感じたことのない多くのひとびとにとっても、死を身近に感じざるをえなかった経験を持つ者の生の捉え方や生き方は参考になると思う。
 人生には答えのない問が多いというのが真実だろうが、多くのひとびとの生き様や感想や経験談は貴重な教科書になりうると思う。

5.所詮、人間の寿命は長くても100年程度だ。平均すれば80年ぐらいだろうか。男女差はあるようだが。

 だとすれば、いつかは訪れる死にいかに向かい合うかということもタイミングを見ながら考えておく必要はあるだろう。結論はなくてもやむをえないと割り切って。

 多くの人々は、生死のことを考えるいとまもなく日々の雑事に追われていることが多いかもしれない。むしろ、深刻に思い悩む時間が多すぎない方がいいのかもしれない。

 6.死に近づきながら、そのまま死に至るのではなく、生き延びて生へと反転することができれば、不幸中の幸いということかもしれない。

 高齢化社会にあって、多くの高齢者が重篤な病気を経験することがふえるだろう。そうすれば、一人の人間が、生き延びることを繰り返して、ついには死を免れなくなるというようなケースがふえることは想像に難くない。

病気と闘わないという考え方の人間もいるようだが、多くはなんとか病気と闘って克服して少しでも長く生きたいと思っているように見える。

 哲学的なアプローチは難しいが、現実を観察するということに徹するだけでも人間の人生や生死というものが少しは冷静にとらえることができるかもしれない。あるいは、本当に死期が迫ればそんな悠長なことは言ってられなくなり、泣きわめくことができるだけかもしれない。

 いずれにしても、生死について明確な答えなど期待できないのだと思う。