南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『 死から見た生 』(価Ⅲ=20)

    

   『 死から見た生 』

                                 価値観の研究第三部 その20

1.自分の死を想定して、そこから生きている自分を眺めてみるというようなことをしてみると、生と死というものがより密接に思えてくるかもしれない。

 さらには、心身の能力が衰えて、十分な活動ができなくなった人間の生きる意味というような問いも浮かび上がってくるかもしれない。

 生きがいというのは、おそらく大多数の人間はあとから見出すもの、あるいは妥協の産物だろう。見つけられないままの人間だっているだろう。

 どうせ死ぬのだから、悔いのないように生きよう、というようなことがしばしばいわれる。

 そのとおりだが、悔いのないように生きることは実際はとてもむずかしいことだと思う。

2.余命いくばくもない人間がじっと病床に寝たきりで食事もトイレも自分では処理できずに最後の時を過ごしているというような場合に、その人間の生きる意味とはなんだろうか?

 命のある限りは生きるというのが人間に与えられた運命であって生きることそのものに人間の尊厳を見出すべきだと考えるのか、あるいは、あきらめて、その段階においては、もはや生きがいは失われて死ぬのを待つしかないと考えるのか?

 介護施設等で多くの高齢者を見るにつけ、人間とはなにか、人生とはなにか、生きるとはどんなことか、生きがいとはなにか、生きる意味はあるのか、人間の尊厳とはなにか、人間の幸福とは何か、等々多くの困難な問いに面食らう。

 ひとつだけ言えるとしたら、死を避けることなく、直視することは、(たとえ恐怖感に襲われることがあっても)、生きるということを見つめなおすというきっかけを与えるということだ。

 人生はシナリオのないドラマであり、答えのない問であり、始まりと終わりのあるものだ。

 普遍的な生き方の案内書はない。ひとそれぞれが自分で自分の生き方を見出すしかなく、予期せぬところで未完に終わるのが人生というものだろう。