南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『 死ぬまで生きるということ 』(価Ⅲ=21)

 

    『 死ぬまで生きるということ 』

                           価値観の研究第三部 その21


1.死が間近に迫っている場合とある程度余命が限られている場合と明確な死期がわかっていない場合とでは、人間の生きる意識や姿勢に違いがあっても不思議ではない。

2.死が間近に迫っている人間の場合は、いかに死を受け入れられるか、安らかに最期を迎えられるか、が問題だろう。植物状態ならともかく、意識があって痛みが強いというような場合では、緩和ケアが重要な意味をもつかもしれない。医療関係者や家族などの協力もたいせつだろう。死を目前にしてじたばたしないでいられるのかどうかはよくわからない。

3.死が目前でないまでもある程度余命に限りがあると告げられた場合は、それなりの心の準備はしやすいかもしれない。やれるだけのことをやって最期を迎えられればやむを得ないというふうに思えるかどうか。やはり死期が近づいて来れば、上記2の場合と同様な心理状態に至るのだろうと思われる。

4.まだ死期が明確に示されていない場合はどうだろうか?
 年齢によって違うかもしれない。20歳以下なら、死は遠いもので、生きることへの関心で満たされているだろう。30代、40代でも死はそれほど身近なものではないだろう。50代になれば、少しは死というものを考えるようになるだろうが、それでも30年以上先のことだと思うだろう。還暦を迎えるころから、人生は最終段階に入るという意識を持ち始めるかもしれない。病気にも襲われる確率が高くなり、死というものが次第に近づいていると感じるようになるだろう。

 70代になれば、元気でいられればありがたちということで、次第に社会の第一線からは離れて自分の年齢というものを考えるようになるだろう。80代になれば、そろそろなにがあってもおかしくはないという心理は働くだろう。90代以上になれば、生きているのが僥倖といった感じになるのではないだろうか?

5.さて、死へのステップや死への意識はさまざまであるのせよ、多くの人間の死を振り返ると、生きている限りは、とにかく楽しいことやうれしいことや希望を持てることなど人生を前向きにとらえることがいいのではないかというように思える。絶望に陥った人間に笑っていろというのは酷なようだし難しいことだとは思うが、できうれば、楽しそうに笑って最期を迎えるのが理想的ではないかと思える。自分がはたしてどういう最期を迎えるかははなはだ自信はないにせよ。