南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『 死の捉え方 』(価Ⅲ=12)

 

      『 死の捉え方 』

                                 価値観の研究第三部その12

1.人間は死を免れない。Man is mortal. 死を忘れるな。 Memento mori. ということは古来言われてきたが、そのニュアンスは、時代とともに変化してきたらしい。もともとは、「どうせ死ぬのだから生きている間は楽しくやろう」、という意味合いが強かったが、やがて宗教と結びつくと、文字通り、「人間は死を免れない」ということを認識せよ、という教訓的な意味合いになったらしい。

2.人間は死をどのようにとらえてきたかを調べてみると興味深いことが明らかになるだろう。そんな中で来世があるという考え方は歴史的にかなり根強いものがあるように思う。
 現世での行いによって、来世に自分が天国に行くか地獄に行くかが決められるという考え方が代表的だろう。
 東洋の極楽浄土と地獄、西洋の天国と地獄、最後の審判などは好例だろう。
 来世への恐怖が現世における行いを清く正しいものにさせるという論理はわかりやすい。
 しかし、来世があるかどうかの証明は難しいのではないだろうか。神が存在するかどうかの証明と同様に。信じるとか感じるとかが大切だと言われるが、科学的な説明として受け止めることはいろいろ難しさがあるような気がする。

3.最近では、「人は死ねばゴミになる」というような見方もある。無神論的な見方なのだろう。この考え方からすれば、来世もなければ、輪廻もない、魂はなく死ねば肉体が朽ち滅びるだけだという。
 この考え方が科学的であると断言できるかどうかはよくわからない。

4.多くの人間が死を恐れることは事実だと思う。そのことが死を直視することを困難にする原因のひとつだろう。余命いくばくもないと知った時には多くの人間が周章狼狽するだろう。パニクって冷静ではいられなくなるだろう。精神的な動揺が現実を正確にとらえにくくする。悟りを開くのは容易ではなさそうだ。迷いや不安や苦悩や恐怖の内に、最期を迎える人間が多いのではなかろうか。意識を失ったままで亡くなるケースもあるが。宗教を信じ、聖職者に懺悔し告白し導かれながら、穏やかな精神状態で神の迎えを待つという心境に達する人間もいるだろう。最期についての考え方、受け入れ方、迎え方は、ひとそれぞれだろうし、どれが正しいと結論が出るものでもないと思う。いわば、答えのない問い、永遠の謎の中で今後とも、人間は生きて死んでいくしかないということではないだろうか?