南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『 国民 とは? 』(価Ⅲ=3)

  
   
      『 国民とは? 』(価値観の研究第三部=その3)(価Ⅲ=3)

 
 最近、民主党の国会議員の発言によく登場するのが「国民」という言葉だ。

 民主党になにか批判的な発言がなされると、必ず、「マニフェストに書いてあるから」とか「マニフェストは国民との約束だから」という反論をする。

 ここでいう「国民」とはなんだろう?

 国民全体の支持をえているというようなニュアンスで使われているようだが、実際には、国民はばらばらである。年齢、性別、職業、収入、資産、住所、出身、学歴、知名度、思想・信条、価値観など千差万別のひとびとがいる。それらをひとくくりして「国民」というのは無理がある。

 国民が平等に扱われるとか法律によらなければ義務を負わないとかいうような、憲法上保障された基本的人権のような場合は、すべての国民は同等にとらえられる。それは、違いを前提としつつ、法的な扱いは平等だという理念を明文化したものだからだ。

 選挙結果は、「多数決」でしかない。

 国民は、マジョリティとしてあるのだ。しかも、投票したという点において共通点があるだけで、それ以外の点について考え方などに異同があるかどうかはわからない。前回の総選挙では民主党支持でも次はどうなるかもわからない。きわめて流動的だ。

 「国民」「国民」と政治家が叫ぶときは、注意しよう。

 どこにも整然と列を成して民主党を支持する「国民」などというものは存在しないのである。従来もまたそうだった。自民党公明党政権においても、国民は数でしかあらわれなかったのである。

 「国民」の支持は、あやふやだが、それしか説得力や根拠にはなりえないのもまた事実だ。マスコミが発表する「内閣支持率」も不正確な要素はありながら、世論に大きな影響を及ぼし、ひいては政治にも影響を与える。その意味で、「国民」の意向を尊重する姿勢は肯定されるべきだし、「国民」をたいせつにしようとする民主党政権の姿勢もそれでよいと思う。

 ただ、それを受け止める国民の方は、常に疑いながら、政治家の発言を聞く必要があるということを忘れてはならないと思う。

 さまざまな意見がある。その中から、決断を下すのが政治家の役割だ。ひとつひとつの事柄について、きちんとした判断がなされていけばいいが、問題ある判断がなされたときは、「国民」がいろいろな角度からブーイングを唱えることがたいせつだし求められる。それが、日本を過ちから救う唯一の道だと思う。