南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

覚醒の恐怖

 前に、村上龍が、「小説に役割があるとしたら『精神の自由』を確保することだ。」というような趣旨の発言をしていることを紹介したことがあるが、あらためて、文学の役割を考えてみると、「精神の自由」の確保ほど重要なことはないと思う。

 世の中の動きはめまぐるしい。生きるということは、信号無しの交通量の多い道路を横断するようなものだ。道路のネットワークや自分のいる位置、どこへ向かうべきかなどをしっかりと見定めなければならないが、それはひとりではできない。多くの人の協力が必要だが、すぐれたリーダーがいないと烏合の衆になってしまう。たとえば、総理大臣や社長といったひとたちの役割がきわめて重要なのである。

 人間ははかないし、弱いし、よく深い。付和雷同しやすい。因習にしばられやすい。世間体を気にする。真実は見えにくい。いわば、思い込みや先入観で生きているのだ。そして、科学的な説明ができないこともやまほどあるので、宗教や道徳が影響力を持ち続けている。

 弱い人間が真理を見ようとすると、とんでもない重荷を背負うことになる。わからないことをどうとらえたらいいのか?わからないことを前提にどう判断したらいいのか?わからないことを前提に下した判断をもとに行動することは正当なのか?・・・むずかしい問題に直面する。

 覚めているということは、精神的には自由であっても、精神的不安定を強いる。ときにはその重圧に負けて狂気に陥るかもしれない。それぐらいたいへんなことかもしれない。

 もし、以上の様な考え方が正しいとしたら、文学者であろうとすることは、とても危険な営みであろう。

 それでも、真実を見続けようとするひとはいるだろう。文学者に限らず、恐怖の谷におびえながらも、人間存在の真理を追求しつづけることが人間の究極の精神活動だと考えているひとがいるだろう。そこに人間の良心は見出せるし、人間というものの価値が見えるだろう。眠る方が楽だろうが、覚醒を放棄したら、人間ではなくなるのではないか?

 狂気に至らぬように覚め続けることこそ、自分が求める道だという気がする。

 文学者のはしくれとして、そんなふうに感じる。