南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

フィクションの力

 さて、精神の自由については前に書いたので、次は、少し具体的な話をしよう。

世の中にはさまざまな掟がある。掟は破れば罰せられる。掟は時代とともに変わる。

たとえば、法律がそうだ。

刑法に犯罪はどういうものかということが書いてある。
犯罪に応じてどんな罪に科せられるかも書いてある。
例外的に処罰を免れることもある。精神異常とか、正当防衛とか。

現実生活では、多くの国民が犯罪をしないように気をつけているだろう。

だが、小説や映画やオペラや演劇では、さまざまな犯罪が起きる。見るものは、フィクションのなかで、犯罪を経験したような気になる。バーチュアルな犯罪体験だ。

夢の中では、違法なことをするこもあるだろう。潜在的な不安や願望が表出するのだろうから。

殺人、傷害、けんか、レイプ、詐欺、恐喝、窃盗、強盗、わいせつ、痴漢、薬物不法所持、輸入禁制品の持ち込み、など。

映画や小説や芝居においては、フィクションの世界でなければ存分に楽しめない悪行を手当たり次第に(表現の自由の範囲ではあるが)仮体験できる。

その爽快感は精神の緊張を解くだろう。

違法ではなくても不道徳な行為や発言もある。差別用語や親不幸、社会道徳上問題発言・行為、ののしりや軽蔑語、不愉快な行為、マナー違反、下品な振る舞いなど。

それも、フィクションのなかでは、かなり許される。
それもまたかなり精神の抑圧を解放するだろう。

公然とした発言や行為が許されないところまで過激なものについては、プライベートな世界でやるしかないが、そういう機会をもつことができるひとはある意味で幸福だろう。

以上のような意味合いにおいて、文学や芸術や娯楽作品というものは、人間の精神の自由を確保する役割を果たしていると思う。

程度が問題だが、可能な限り、表現の自由を確保して、犯罪の予防につなげたり、健全な判断力を養成することはたいせつだと思う。暴力映画や残虐小説がひとを犯罪に走らせる例もあるので、そのへんは科学的な取り組みを必要とすることは言うまでもない。

人間の精神が自由で物事を常に客観的に科学的に判断できることこそ、「人間の尊厳」のよってきたる所以であると思うのでね。