南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

科学的な解釈は可能か?(価値観の研究ーその22)

 これまで、「価値観」についていろいろ述べてきたが、なぜそんなことをくどくど書いているかというと、「自分」をできるだけ正確に知りたいからだ。

 だれしも、自分の与えられた環境に、意識するしないにかかわらず、制約をうけている。
 なぜ、自分はこのように考え、思い、行動するのだろう?

 それがはじめの問いである。

 保守的とか革新的とか、民主的とか強権的とか、右翼的とか左翼的とか、温和とか過激とか、利己的とか利他的とか、信心深いとか無信仰とか、猪突猛進とか冷静沈着とか、いろいろな形容詞がある。

 人種差別や優越感・劣等感、家族観、社会意識、道徳観、生きる目的、やりがい、死生観などもかなりばらつきがある。

 問題は、共存共栄できるかだ。違いがあってもおたがいを侵すことなく友好的に生きていけるかだ。

 「価値観の研究」は、そういうところから、出発したわけである。

 今回は、断片的で、恣意的で、利害関係に影響された、「発言」をどう解釈すべきかということをとりあげたい。

 たとえば、本能寺の変明智光秀は、なぜ織田信長に反旗を翻したのだろう?

 歴史家や小説家などが、いろいろな説明を試みている。

 資料をもとに推理をしながら、自分なりのストーリーをまとめる。絶対的な真実は究明できないが。

 現在においても事情は同じである。

 評論家や学者や関係者がいろいろなできごとに対するコメンテーターとして登場する。

 犯罪ならば、警察によって逮捕され、裁判になれば、法廷であらそわれるので、真実がかなりの精度で明らかになる。

 しかし、現実には、違法行為に該当しない事案が多い。

 だれかに金銭的な援助を受けている場合の発言は基本的にはバイアスがかかると思われる。

 たとえば、広告宣伝はスポンサーからの資金提供で作られる。

 大学の先生の発言はどうか?

 比較的中立に近いことが期待される。しかし絶対ということはない。

 すると、もっとも客観的な解釈は隠れたところにあると考えたほうがよさそうだ。

 本音は、ひそかに手記に記される。あるいは、書かれずに頭の中にのみ記憶される。

 手記だって、科学的な正確性とは一致しない。ただ、真実への道への導きにはなりやすいだろう。

 以上見たように、さまざまな事実をより正確に理解するには、補完的な情報が不可欠だ。

 しかし、その補完的な情報をどのように入手し整理するべきかどうかについても、慎重に検討しなければならない。

 かように、真実への道は困難なのである。

 しかし、可能な限り、科学的な認識、科学的な解釈をしようとする姿勢と努力無しには、そちらへ近づくことはできないと思う。

 だれもが生まれながらに持っている種々の制約を一旦対象化し、その上で、できるだけ偏見のない自由で客観的なアプローチをすることがたいせつなのではないだろうか?