南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

倉田良成の職人芸

 

   『 倉田良成 の 職人芸 』


1.SNSの効用
 
 ミクシィに代表されるSNS(ソーシャルネットワークサービス)は、さまざまな功罪があるにせよ、使い方によってはとても役に立つと思う。

 小生も、いくつかのSNSを利用させてもらっているが、そのひとつに、岡田幸文が主宰する「なにぬねの?」という詩をメインとしたSNSがある。

 そこで、なんにんかの詩人と知り合えたことは大きな財産と感謝しているが、その中で、ここでは、倉田良成を取り上げたいと思う。なお、すべて、敬称略であることをお断りしておきたい。

2.倉田良成の詩について

 (1) 詩集「神話のための練習曲集」

 昨年出版された詩集「神話のための練習曲集」について、小生は、当時、「なにぬねの?」に以下のような感想文を書いたが、今でもその印象はかわっていない。


 一読、身震いがした。これは文句ないできばえの詩集であると思う。

 小生は、比較的最近になって倉田良成(敬称略)の詩を読むようになったに過ぎないので、彼のこれまでの功績の全貌は知る由もないのだが、「東京bohème抄」で感じた確かな筆力を、今回更に確実なものとして確認することができた。

 「あとがき」によれば、倉田は、この詩集の作品を、「試行」「憑依」「追跡」という三つに大別している。「現象」という副題にも、倉田の明確な詩作のテーマが見て取れる。意識して詩集を構築できるのは並外れた力量の証明である。

 32篇の詩作品はいずれも、「力仕事」の結晶であり、すぐれた美術工芸品や音楽作品のような味わいに満ちている。
 古今東西の、技芸百般に通じた、倉田の本物の教養が詩に厚みを与えている。
 そして、なんと言っても、人間のさまざまな営為が語られることを通じて、神話の高みに達していることが、この詩集の最大の特色であり美点であるといえるだろう。

 32篇のバラエティに富んだ作品は粒ぞろいで甲乙が付けがたいのだが、小生としては、とりわけ、「マジック」と「アリア」が好きだ。

 「マジック」は、ワイングラスを使った手品の話だが、流れがあまりに巧妙なので、クラタマジックを堪能させてくれる。

 「アリア」は、バッハのG線上のアリアを下敷きにした軽妙洒脱な作品で、倉田の音楽への造詣の深さを遺憾なく発揮した傑作である。

 冒頭部分は次のようである。

   あらゆる熱狂が去って現れた広場に、大きな躯体が想像さ
  れる。その架空の中心からまずニ長調の錘鉛がはるかに垂ら
  される。そして無名で勤勉で悦ばしい手により、煉瓦の飛び
  石みたいな、時を刻むコンティニュオ(バス、チェロ、チェン
  バロから成る)が着実に嵌め込まれる。それは解体の全構造
  にまで及ぶ。構築物は便宜上、四つからなる拵え物の層の重
  なりで組み立てられて行くことになるであろう。むろん第一
  の層はいま言ったコンティニュオということで、ニ長調が形と
  なる最初の陰影をなす。「花は光を含んで匂う」、という文に
  おける、「は」「を」「で」「う」に相当するもので、そこに初
  めて建物にとっては本質的な時間の出現を見る。(以下略)

  
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  これまで、小生は、しつこく詩作における「眼力」と「レトリック(言語表現技術)」の重要性を指摘してきたところ、倉田は「それは入口の話で、問題は出口ではないか」という趣旨のコメントを返してきたが、今回の詩集の作品群はまさに「出口」の証明となっているものであり、小生としてもわが意を得たりという喜びに耐えない。要するに、小生のように、詩作のさまざまな技術にこだわるものから見ても、倉田は十分精密な仕上がりを見せてくれているのだ。

 更に、言えば、倉田は、「喩の達人」である。
 豊富な古典文学、伝統芸能、音楽、美術、神話、民話、寓話などの知識に加えて、ひとを楽しませるエンターテナーの要素も持ち合わせている。
 日常生活さえ神話性を与えられるのだ。
 「直喩」「隠喩」「引喩」「換喩」「本歌取り」「語呂合わせ」など「喩」のさまざまなバリエーションを巧みに駆使している。古典文学からの引用も、詩に重層性を与える。

 倉田について、もうひとつ忘れてはならないのは、「現実」にしっかりと根ざした詩を書いているという点だ。「食日記」に見られる、あくなきグルメぶりは、倉田が、神話性の原点は、ほかならぬ日常生活であり、ごくありふれた人間の普段の思いであるという認識をしていることを証明するものだろう。

 しばしば、教養あふれる詩人の書く作品は、未消化の教養にふりまわされ、衒学的であったり、観念的すぎたりして、無内容でがらんどうで、見掛け倒しの、無残な廃墟を構築するに終わる例が見られる。しかし、倉田は、常に、現実から目をそらすことはない。そこに、倉田の詩の持つ、説得力と情緒への訴求力がかちえられるのだと思う。

 以上、まだまだ十分に読み込んではいないので、ピントはずれな感想に終わっている部分もあるかもしれないが、この詩集が、現在の日本語で書かれる最高の到達点を極めた詩集のひとつであることはまちがいないと思う。

 ぜひ、多くの方々がこの詩集のマジックに酔いしれて欲しいと望むものである。」

(2)「食日記」

  解酲子(かいていし)というHN(ハンドルネーム)で、倉田が、「なにぬねの?」に書き続けている日記は、毎日の食事の内容を書きつけつつ、日々の思いを記していくというスタイルのもので、なかなかユニークでおもしろい。

 その中で、特に印象深いのが、昨年9月7日の「食日記番外」と題された、次の詩だ。

「  
     白露に


         延喜御時哥めしければ

            白露に風のふきしく秋のゝはつらぬきとめぬ玉ぞちりける   文屋朝康


  暑さはなかなか去ることをしないが、風の匂いなど、もう
 盛夏のものではない。サイフを握りしめて買い物に出る。ふ
 だんは部屋に引き籠もっている、一周一時間の、これが男の
 まいにちの労働だ。町に出るには大きな踏切を越えてゆく。
 フルセットにもなると合計六本の列車の通過を待たねばなら
 ない。時間がもったいないときには大踏切の上をまたぐ横断
 歩道橋を渡る。歩道橋にはなぜか決まって、半ば乾燥しかけ
 た盛大な開花みたいな嘔吐の跡や、近くに競輪場があるせい
 か、車券や湿った新聞などが散乱していて、それを避けつつ
 向こう側の町に下りる。まず中華料理屋へ入って、モヤシソ
 バ六八〇円を食い、千円を出しておつり三二〇円を受け取る。
 その足でコンビニエンスストアへ行き、宅配便を元払いで出
 す。六四〇円なのでまた千円を出し、三六〇円を受け取る。
 これで硬貨は六八〇円。内訳は、百円玉六枚と五〇円玉一枚
 と十円玉三枚。これで硬貨一〇枚。細かい硬貨はできるだけ
 減らしたい。夕食の材料を買いにスーパーマーケットに入る。
 卵小一七八円と中華麺九八円とプレンヨーグルト一八八円、
 それに豚バラスライス一〇〇グラム一八四円と隠元一九八円、
 トマト一盛り三〇〇円、それに名水もやし三八円を籠の中に
 入れ、レジに並ぶ。合計一一八四円。千円と二〇〇円を出し
 てつりをもらうと一六円、これで細かい硬貨は四九六円とな
 り、かえって増えてくるので何とかしなければならない。一
 〇〇円玉四枚、五十円玉一枚、十円玉四枚、五円玉一枚、一
 円玉一枚。また跨線橋を越え、住宅街のほうに戻って、ベー
 カリー「ビオレ」で発芽玄米食パン一斤を買い、二三一円を
 出し、二六五円とすることで、この硬貨一一枚を一挙に五枚
 に減らす。それから隣の鮮魚「魚徳」に寄り、かんぱちのサ
 ク七六〇円を求め、また千円を出してそれに細かい硬貨二六
 〇円を足して渡し、五〇〇円玉を得ると、なんと硬貨はその
 五〇〇円玉と五円玉一枚まで減る。そこから秋風に吹かれつ
 つ広い勾配を徐々に上って生協に寄る。ふと足りないものが
 あるのを思い出したからだ。公園の脇の生協の扉を開け、猫
 にやる鶏ささみのパックを手に取る。二〇八円。ついでに生
 協林檎ジュースを籠に入れ、レジにまた並ぶ。鶏ささみと林
 檎ジュースの値段が打ち出される。林檎ジュース二九八円。
 合わせて五〇六円。男はあることに気づくがもう引き返せな
 い。千円を渡した男の手に四九四円の硬貨の重さがざらりと
 移される。サイフに残る五〇五円と合わせ、九九九円。五〇
 〇円玉一枚、百円玉四枚、五十円玉一枚、十円玉四枚、五円
 玉一枚、一円玉四枚の、合わせて一五枚の硬貨のフルセット
 が、玉ぞちりける。もう買うものは何もないのだ。 」

  これは、小銭のお釣りという日常生活の感慨を述べているわけだが、なんという名人芸だろ
うか!

(3)「tab」

 倉田が編集して二ヶ月に一度ほどの間隔で発行している手作りの詩誌「tab」は、書き手も内容も充実しているし、装丁も独特で、各ページがホッチキスなどでとめられていない。小生は、その14号ではじめてこの詩誌を読むことができたが、倉田の語り口の絶妙さにはただただ舌を巻くだけだった。 

(4)これからへの期待

    現在存命中の詩人の作品にも多くの感動的なものはあると思う。最近小生が読む機会があった詩作品の中で文句なく心に響いてきたものを書いた詩人を挙げれば、倉田良成ほか、谷川俊太郎、瀬尾育生、吉田義昭、野村喜和夫、南川優子、文月悠光などである。  

   私見によれば、芸術の極意は単純だ。「洞察力と表現技術」に尽きる。しかし、 実際に、すぐれた作品を生み出すのは並大抵のことではない。おそらく才能と努力と幸運にめぐまれる必要があるだろう。
  倉田良成は、詩人としてあるいは文学者・芸術家として  それだけのものが備わった逸材のひとりだと信じる。今後ますますの活躍を期待したい。