南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

けなし上手

 詩人仲間がいっぱいいる。
みなプライドがあるからおたがいの作品のことはけなさない。
そのせいかどうかわからないが、下手な詩をほめあうさまはなげかわしい。
同病相哀れむ。ほめ上手ばかりだ。高齢化社会でいきがいを奪っちゃいけない。プライドを傷つけちゃいけない。というような気配りなのだろう。

 たしかにほめられるとだれでもうれしい。こどももほめられるとやる気が出て伸びる。
年寄りはどうだろう?自信をつけていい詩を書けるようになるだろうか?
それとも、才能がすべてを決定するのだろうか?努力は才能を補完しない?

 ぼくは、常に、思ったとおりの批評をする。ほとんどの場合、ほめることはない。そんなにすぐれた詩を書けるひとがたくさんいるはずがない。すぐれた詩がそんなにたくさんうまれるはずがない。だから、ほめるより、けなすことが圧倒的に多くなる。社交辞令的にほめるところをさがしつつ、やっぱり、だめなところをずばり指摘することはやめられない。

 率直にけなしたときの相手の反応はほぼ同じだ。表面的には受け入れる。丁寧に読んでくれてありがとうなどと殊勝らしく言う。しかし、そのあと態度が変わる。どこかで会ってもまず近寄ってこなくなる。詩誌や詩集もくれなくなる。明らかにきらわれるのである。プライドを傷つけたら、リベンジは必至である。人間社会ってそんなもんだ。

 だが、これでいいのだろうか?批評は率直でなければならないとぼくは考える。
おおむね次のような点が問題だ。

・なにを言いたいのか十分に考えていない。
・くだらないことがテーマだ。
・起承転結がはっきりしていない。詩の流れが悪い。
・言葉の選択が拙劣
・余分なところや足りないところがある。
・リズムがわるい。
・言いたいことと言葉が合っていない。
・全体の分量が多すぎる、または、少なすぎる。
・見かけの奇抜さだけを追い求めて、肝心の言葉の根っこを無視している。
・感動を与えることを最優先することを忘れている。
・日記や手紙みたいなレベルにとどまっている。
・詩は哲学的なあるいは象徴的な世界を暗示しなければならない。
・比喩や象徴のたいせつさ。
・全体として、テーマを明確にして、的確な言葉遣いをすることができていない。

 おおよそ以上のようなことが言えると思う。

谷川俊太郎氏のような天才的な詩人は何十年にひとりしか出現しないのだろうか?

戦後60年の間多くの詩が書かれたと思うし、ぼくが読みえた詩はほんの一部だろうから、絶対的な評価は下せないけれども、谷川氏のレベルに達しえた詩人は10人は見当たらないような気がする。幸いに、自分の世代には何人かすぐれた詩人がいる。若い詩人にもすごい才能の持ち主がいるのだろうが、まだ出会っていない。幸運な出会いをしたいものだ。それこそ、心のそこから「すばらしい詩ですねえ!」と叫びたいと思っている。