南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

愛の鞭

 鈴木志郎康さんのブログを見ていたら、詩の批評の場が少ないことを指摘し、コミュニケーションの回路をつくる必要性を強調されていた。

 ぼくも詩を書き、読むということを長くしてきたが、「詩の批評の貧困」ということについて、長らく問題だと感じてきたので、まさにわが意を得たり!という思いがした。

 詩を書き、読む人はそれなりにたくさんいる。ただし、小説のように広く一般のひとびとに読まれることはあまりない。

 詩の批評の場は、詩の雑誌の批評欄、同人誌の批評欄、新聞の批評欄、会合での意見交換、インターネットでのコメント、個人的なメールや手紙での感想などがあるだろう。

 しかし、出版される詩集や詩誌の数に比べると、批評の場は少ないような気がする。

 それと、批評する側が、「ほめること」はするが、「欠点を指摘すること」にはかなり消極的なケースが多いように見える。

 詩の発展のためには、愛情を持ちながら、言語技術的には厳しい指摘をすることが必要ではないだろうか?

 こういう意見を親しい詩友になげかけたことはあるが、おおむね否定的な反応がかえってくる。

 ひとはほめられて成長するから、とか、既成詩人はいまさら欠点を指摘されてもなおしようがない、とか、欠点を指摘するより、長所をほめて伸ばしたほうが現実的だとか、きらわれてまで本音を言いたくない、とかの意見だ。

 もっともな意見だと思うし、大人の態度だという気もする。

 しかし、ぼくにはどこか腑に落ちない。

 愛の鞭っていうのが、芸事にはひつようではないだろうか?

師弟関係みたいなものを重視してもいいんじゃないか?

 向上を目指すなら、きびしい批評が不可欠ではないか?

 そんなことを思ったのでした!