南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

宗教について(価値観の研究=その3)

科学の発達はめざましい。特に、最近の発達のスピードは驚異的だ。

それでも、わからないことは無限にあり、
まじめに考えるとだれでも狂気から逃れられそうもない。
だから、深く考えすぎないようにするか、とりあえず、わかったところを踏み台にして
次の謎解きに挑戦するか、最新の研究成果を入手することで、一応の満足を得るというふうにすることが多いのだと思う。

科学はわかるわからないがかなり客観的に判断できるからまだ扱いやすい。
でも、おそろしく複雑な宇宙というものがなぜ存在しているのかという問いにはかんたんに答えられないだろう。科学も狂気をはらまざるをえない。

人間の精神生活は始末に悪い。
死という不可避の結末から逃れはない。いつ訪れるかもわからない。
不安定だ。不安だ。はかない。おそろしい。どうせ死ぬならなにをしても無駄か?死ぬまでは充実した生をまっとうしたい。いろいろな価値観がありうる。

歴史をふりかえれば、宗教と無縁の民族はなかったようだ。
なんらかの信仰が生まれてきた。
精神的なよりどころがなければ人は生きていけないのだろうか?
道徳というものもある。
イデオロギーもある。
社会科学という学問分野もある。

アメリカという最強の国家も、キリスト教の影響力は強い。
ローマ法王の影響力も絶大なものがある。
イスラム教。仏教。ヒンズー教。など。
多くの宗教がある。それぞれひとびとの社会生活に深くかかわっている。
宗教同士が争いのもとになるという不幸な事実も多く見られる。

なにが正しいのか。正義とは?善悪とは?
好き嫌い?美醜?喜怒哀楽。快不快。生老病死。運命。
問いは無限。答えは相対的。

価値観は絶対的ではないが、これまで生きてきた人類の歴史の蓄積はある。
経験的な価値だ。
生命の安全。表現の自由基本的人権の保障。
おたがいにいやなことはしないようにしよう!
根拠なく負担や被害や罰を受けないようにしよう。など。
共存共栄のための工夫が作り出されてきた。

それでも争いは起きる。戦争も発生する。災害や病気や事故も起きる。殺人や強盗や詐欺恐喝も起きる。
見渡せば、世界中が悪の見本市だ。
だが、よく見れば、愛し合える人間もいる。信頼しあえる友人もいる。花も鳥も風も月もある。
おいしいワインや料理もある。音楽や美術や文学。ファッション。温泉。ゴルフ。つり。パソコン。ケイタイ。交通機関。テレビや映画。マイホーム。マイカー。家族。隣人。
好ましい存在も無数にある。
悪とともに善の見本市でもある。

そこに救いがあり、知恵もある。
生きるヒントがある。

ところで、宗教の役割とはなんだろう?信教の自由。
熱心に神に祈る人を冒涜してはいけない。
だが、神を信じきれないひともいる。
宇宙を創った神のような存在までは否定できないひとが多いと思うが、
それはいわゆる宗教と呼ばれるものの枠を超えた存在のような気がする。
今の日本人の多くが、なんらかの宗教の熱心な信徒ではないような気がする。
あるいは、自覚していないだけで、無意識になんらかの「信仰」を持っていると見るべきだろうか?

かりに、相対的に宗教心が薄い国民が多いとしよう。
そのことにはプラス、マイナス両面の効果がありうる。
プラス面があるとしたら、寛容性だろう。
マイナス面があるとしたら、精神的不安定性かもしれない。

では、詩と宗教とはどういう関係にあるだろう?

詩とイデオロギー

詩と価値観?

詩と科学?

詩は、精神の自由を確保するところに大きな価値があるとしたら、
あらゆることから自由になることに価値があるかもしれない。
だが、下手をすると、狂気の沙汰に陥るリスクもあるかもしれない。

表現は常に「リスク」を伴うということに通じるのかもしれない。

答えは、簡単に出ないだろう。

ミケランジェロ最後の審判もダビンチの最後の晩餐も宗教画だし、
バッハの受難曲もモーツァルトのレクイエムもミサ曲だ。
日本の仏像も仏教文化だ。

これまでの偉大な芸術作品は、多くが宗教と密接な関連があったことは否定できない。

では、これからの芸術はどうか?
重すぎる問いかもしれない。