南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

美醜について(価値観の研究=その2)

美とはなにか?
永遠の課題かもしれない。
「言語にとって美とはなにか?」と問い続けてきた人も多いと思う。

ところで、今回は、あるがままの美しさについてとりあげたい。
つまり、人工の美に対して、自然のままの美というものがあるのかどうかということである。

今自然が美しいといわれるときその自然の多くは人工の自然であることが多いような気がする。
もちろん、前人未到の天然自然などというものもあり、ジャングルの美、砂漠の美、秘境の美など、
手を加えていない自然の美もあることは否定できない。

では、身近な話題として、人種について美醜はあるだろうか?
白人と黒人とアジア人とか・・・。
同じアジア人でも美人と不美人がいる。
個別に比較すれば美醜を語りやすいかもしれない。

では、人種まるごとでとらえたらどうだろう?
差別問題などがからんで議論することは困難かもしれない。

では、動物についてはどうか?
犬と猫。猿といのしし。鰐といたち。
うぐいすとすずめ。孔雀とにわとり。
金魚とフナ。サメとまんぼう。

植物についてはどうか?
桜とつつじ。
菊とコスモス。
松と杉。

品種改良とかもなされているので、
どこまでが天然かは判断がむずかしいが、
とにかくおびただしい生物種について観察し、
美醜を論じだしたら切りがない。

しかし、それ自体が美しいかどうかということと、
美しいものを目指して、人工の努力をすることは、
相互に作用しあって、美を高めるように思う。

たとえば、うまれつき美人だといわれる女性がいるとしよう。
彼女が、食生活に注意し、運動を楽しみ、教養を身につけ、
化粧やファッションのセンスを身に着けたなら、鬼に金棒だろう。

・・・では、言語に戻ってみよう。

詩は言語の美をもとめているのだろうか?
それともほかのなにかを求めているのだろうか?

美醜を含めた全体とか?美醜を超えた存在とか?

なかなか答えが見つからない難問だと思うが・・・。
どうだろうか?