南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

タブー(価値観の研究=その18)

 言論の自由、精神の自由は重要だ。偏見のない覚めた観察眼と客観的な判断力が求められる。

 しかし、忘れてはならないのは、人間が科学的であろうとすればするほど、狂気に近づくおそれがあるということだ。

 歴史に教訓を見出そう。

 過去の宗教の多くが、現世と来世。現世での行いが来世での幸不幸を決定する。

 最後の審判や天国と地獄。極楽と地獄。三途の川。閻魔大王。人間は死ぬときに、天国に行くか地獄に落ちるかを裁かれるのである。

 来世があるなどということは科学的には証明困難だ。しかし、「神」とか「超越者」とか「創造主」とかいう人間の能力を超えた神のごとき存在があるのではないかという主張には説得力がある。

 宇宙や生命の神秘を考えるとき、とても人間が生み出せるはずがないと感じる。

 すると、神とか宗教が生まれる必然性もあり、科学的といえるほどの社会的歴史的な重要性を有しているのだろう。

 しかし、懐疑論者にとっては、証明できていないことはあくまでも仮説として分類すべきことになる。

 単純に言えば、証明できたこととそれ以外のことを峻別するのである。

 さて、現実をよくよく観察してみれば、日本でも、神社仏閣が津々浦々に根を下ろしている。
 冠婚葬祭は仏式や神式あるいはキリスト教式など日常生活はそれと切り離せない。

 あるひとが、自分が死んだときには、宗教と関係なく葬式をやり、お墓も宗教と関係ないところに作ってほしいと望んだとしても、遺族はそれを実行するのにけっこう苦労すると思う。

 美術や工芸も寺院や神社に多く存在する。宗教の教えを表現したものも多い。

 雅楽なども高貴な家柄や儀式と密接な関係があるだろう。

 もちろん、歌舞伎や浮世絵や日本舞踊や小唄など、宗教というよりは、民衆のなかから生まれてきたものもたくさんあるだろうが。

 バッハの宗教音楽。ミケランジェロの宗教絵画。芸術を理解するのに、宗教と切り離しにくい例も多い。

 人間は、病気やけが、そして死という最期に向けて徐々に歩まざるを得ない。なにびとも死をまぬかれないし、いつ死ぬかもわからない。
 そういう現世の不安や恐怖が救いや慰安を求めることにつながるのはわかる。
 神を信じれば、心の平安を得られ、成仏できるといわれて、信仰に走る心理はもっともかもしれない。

 逆に、不信心だと、心の迷いがとれず、病苦に侵されやすく、成仏できないと脅されれば、弱い人間は、信心に向かうだろう。

 こうして、科学的には証明できていないことでも、死をまぬかれない人間の宿命があるという冷厳な事実があり、「あることについて差しさわりがある=たたりがある」というような心理が働き、ひいては「社会的なルール=タブーや禁忌」として確立していくというプロセスがあるのだと思う。

 表現には常にタブーがつきまとう。なんでも言えるわけでも言うべきでもない。言論の自由にはそういう制約や配慮事項もあることを忘れてはならないと思う。