南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

『 死後の世界 』(価Ⅲ=18)

 

        【 死後の世界 】

                      価値観の研究第三部 その18

1.死後の世界については、古来さまざまなことが言われてきたが、だれにも確かめることはできない。

 エジプトのミイラは人間が蘇ることを信じた上での制作だっただろうし、仏教の浄土や地獄、輪廻といった考え方も興味深いし、キリスト教の天国と地獄、最後の審判といった捉え方もあるなど、さまざまな宗教や思想が死後の世界を想定し描いていたことはまぎれもない歴史的事実である。

 たしかめようもないのに、長い間多くのひとびとによって信じられてきたという事実は重い。
 人間にはなにかを信じたい、つまり生老病死を背負った人間というものを導く教えや価値観とでもいうべきものを欲する必然性があるのだろうか?

2.あの世とこの世とか、三途の川を渡るとか、盆には先祖が帰って来るとか、日本人の生活にもそういう慣習が根付いている。社会慣習というものは、冠婚葬祭にみられるように、科学的な進歩が顕著であっても、ただちに否定されたりすたれるものではない。
 人間にはあるいは宇宙にはまだまだ解明されていないことがたくさんあり、これまでわかってきたことからだけでは、すべての謎を解き明かせないということは確かだろう。

 死後の世界という捉え方についても当分は受け入れられていくと思われる。

3.死後の世界については、信じるかどうかという観点以外にも、一種の空想的な物語やロマンとして楽しむと言う姿勢もありうるかもしれない。そこには人間の生が反映しているともいえるかもしれない。
 人間は生の中でしか生きられないが、死を意識せざるを得ない存在として、過去の死者や死の捉え方などを生の中に取り入れて生きていかざるを得ないのかもしれない。
 多くのことは仮定形で語られるにしても、死は常に生の最後に居座るのだから。