南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

ダニエル・バレンボイム(ふたたび)

 昨夜、NHKハイビジョンで、ダニエル・バレンボイムの、ベートーベンのピアノノナタ連続演奏会(2005年6,7月ベルリン国立歌劇場で開催)のもようを観た。第7回と第8回。16番、14番、6番、21番。9番、4番、22番、32番。毎回4曲ずつで、8回で32曲。昨夜で全曲の放映が終了した。

 テレビの画面を見ながら、音を聴いていると、CDで聴くよりも現実感がます。生ならどんなにいいかと思う。

 演奏中のバレンボイムの表情が大映しになる。文字通り玉のような汗が浮かんでいる。手が上下左右、さまざまな角度からアップで映される。また離れたところから全身が映される。

 手がピアノの鍵盤の上を自在に動き回る。無駄な動きはなく、渾身の演奏なのに、どこかリラックスした余裕がある。あるいは、演奏に没頭することにより、自我を忘却しているかのようだ。無の境地と言ってもよいだろう。

 表情はきりっとしていて、真剣そのものだ。63歳(当時)にしては、年齢を感じさせないダイナミズムがある。神々しささえ発せられている。

 ときどき、クレッシェンドがきわまっていくときなど、超絶技巧といってよい高速のフィンガーテクニックが見て取れる。ベートーベン特有の持続し、変化し、積み重なるような、パワーとスピードと沈黙。
それを自分の力量のすべてを発揮して表現しつくそうとするピアニスト。フォルテのパートでは、無意識にか、ちょっと腰が浮く。気合を入れなおして、険しい山を越えようとするかのようだ。

 最後のピアノソナタ(32番)を弾き終わったとき、一瞬、バレンボイムは放心したようにピアノの前にすわったまま、ハンカチをとりだして、噴出す汗をぬぐった。そして、いかにも大仕事を成し遂げた満足感を表情ににじませながら、ゆっくりと立ち上がり、聴衆の方へと歩み寄った。

 場内は、万雷の拍手。立ち上がって拍手喝さいする聴衆も多い。

 バレンボイムは、丁寧に歓呼にこたえた。お辞儀をし、腕を差し伸べ、右手を胸元にそえ、場内のさまざまな方向に向かって感謝の気持ちをあらわした。

 白っぽいハイネックのシャツ(ノーネクタイ)に黒っぽいブレザーに身を包んだ紳士そのものの気品あふれるピアニスト。テレビの前のぼくも感動して立ち上がってしまった。

 偉大な作曲家と偉大なピアニストの出会い。最高のとりあわせだ。至福のときだった。

 ダニエル・バレンボイム

 しばらくは、ぼくの心をとらえ続けるだろう。