南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

情報の自動仕分け機能(価値観の研究=その19)

 情報をまじめの取り入れようとすると、情報の洪水にはまっておぼれる危険がある。

そこで、人間は、たぶん、無意識に必要な情報、関係のある情報、興味を持てる情報だけを仕分けしてとりいれ、その他の情報は無視して捨て去るという作業をしていると思う。

 情報洪水への自己防衛である。

 すると、おそらく、世界全体を知り尽くすことは不可能だろう。

 結局、自分の「価値観の体系」にしたがって、情報を取り込み、処理し、「価値観の体系」にとりこんでいくというステップがとられるのだと思う。

 では、あらゆる人間が、群盲象を撫でるがごとき、部分的な把握しかできないのだろうか?

 論理的にはイエスだろう。

 しかし、人間の知恵はもうすこしましな位置においてくれるのではないか?

 基本的な基礎や骨格がしっかりとしていれば、建物がかんたんには崩れないように、
「価値観の体系」もしっかりと構築されていれば、日々の現象面での情報を取捨選択する過程において、
かなりの正確さでそれが可能になると思われる。

 反復して、チェック作業をしていれば、おおきなズレが生じないうちに軌道修正も可能だろう。

 さまざまな情報=真実、うそ、意図的な情報操作、タブー、悪意、偏見、嫌悪感、憎しみ、溺愛、欲望、ねたみ、虚栄心、いきがかり、立場、利害関係、駆け引き、など、情報には、それにまつわる複雑な背景や状況や要素がある。そういう複雑な情報を的確に処理するには、かなりの知性と努力が必要だ。

 なにも考えずにのほほんと生きていくことも可能だろう。そういう生き方を選んでいる人間もいる。

 そういうひとなりの「価値観の体系」があるのだろう。

 「価値観の体系」は無数にあり、常に共存したり、競合したり、対立したりする。

 「個人=それぞれの価値観の体系」といってよいだろう。それほど、多様なものだという気がする。