情報をまじめの取り入れようとすると、情報の洪水にはまっておぼれる危険がある。
そこで、人間は、たぶん、無意識に必要な情報、関係のある情報、興味を持てる情報だけを仕分けしてとりいれ、その他の情報は無視して捨て去るという作業をしていると思う。
情報洪水への自己防衛である。
すると、おそらく、世界全体を知り尽くすことは不可能だろう。
結局、自分の「価値観の体系」にしたがって、情報を取り込み、処理し、「価値観の体系」にとりこんでいくというステップがとられるのだと思う。
では、あらゆる人間が、群盲象を撫でるがごとき、部分的な把握しかできないのだろうか?
論理的にはイエスだろう。
しかし、人間の知恵はもうすこしましな位置においてくれるのではないか?
基本的な基礎や骨格がしっかりとしていれば、建物がかんたんには崩れないように、
「価値観の体系」もしっかりと構築されていれば、日々の現象面での情報を取捨選択する過程において、
かなりの正確さでそれが可能になると思われる。
反復して、チェック作業をしていれば、おおきなズレが生じないうちに軌道修正も可能だろう。
さまざまな情報=真実、うそ、意図的な情報操作、タブー、悪意、偏見、嫌悪感、憎しみ、溺愛、欲望、ねたみ、虚栄心、いきがかり、立場、利害関係、駆け引き、など、情報には、それにまつわる複雑な背景や状況や要素がある。そういう複雑な情報を的確に処理するには、かなりの知性と努力が必要だ。
なにも考えずにのほほんと生きていくことも可能だろう。そういう生き方を選んでいる人間もいる。
そういうひとなりの「価値観の体系」があるのだろう。
「価値観の体系」は無数にあり、常に共存したり、競合したり、対立したりする。
「個人=それぞれの価値観の体系」といってよいだろう。それほど、多様なものだという気がする。