南原充士『続・越落の園』

文学のデパート

本屋の利用法(価=Ⅱ その12)

 インターネットでの情報収集が格段に便利になった現在、本や雑誌の存在理由はなんだろう?

 自分の経験で言えば、人間は動物であるので、五感を活用したい。そういう観点からすれば、アナログ的な情報の触れ方も重要だ。デジタルとあいまって総合的な情報収集が可能になるのだと思う。

 手にとって見るということの意味は衰えない。
 ページをめくる。ざっとめくったりぱらぱらめくったりゆっくりめくったり。好きなところで立ち止まったり。バッグにいれて持ち歩いたり。寝転がって読んだり。自由自在に扱える便利さは印刷物にかなわない。電子ペーパーなるものが開発されているようだが、それはかなり利便性をますかもしれない。

 人間の記憶力には限界があるから、いずれにしても、本やインターネットやPCに情報をたくわえておく必要がある。

 必要なときに取り出しやすいようにすることもたいせつである。

 書物は、自分の部屋だけでは限界がある。特に、ぼくはスペースのせまい自分の部屋に多くの資料を置いておきたくない。

 そこで、本屋に行くと、どんな本があるかをざっと見渡す。いろいろなジャンルの本が次から次から出版されるのに驚く。全部を読もうとか、把握しようとかは無理な時代になってしまった。

 自分がどうしても読みたくて購入する価値があると思える本に限って購入する。

 あとは、図書館に行ってどんな本があるかをチェックする。そのなかで、興味のあるものがあれば借り出す。ほんとうに必要な部分はコピーをとるか、メモをとる。

 このようにして、極力、手元に書物を置かないように工夫して、快適な読書に努める。

 ときたま、自分がなにを学ぼうとしているのか、なにを書こうとしているのかを考えてみて、情報の優先順位をつけてみる。

 すると、本屋に行っても、膨大な質量の書物の洪水に押し流されることなく、比較的冷静に書棚に向かうことができる。あの本はあそこにあるんだな!要るときは見にきてやろう。立ち読みですめばすまし、買わなきゃすまないときは買う。

 本屋にある本は、一種の図書館だととらえると気が楽になる。もちろん、返本されて書店の店頭から姿を消す本も多い。そういうリスクも念頭においておく必要はある。

 所詮、情報の一部しか追えない。

 でも、重要性の優先順位さえ間違えなければ、どんなに情報量がふえても対応できるのではないかという気がしてきている。

 知の追求にこだわったアリストテレス並というわけにはいかないが、ぼくは自分の器量のなかで「知の追求」を続けていきたいと思う。